ヴィルヘルム・バックハウス

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ヴィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus, 1884年3月26日[1] - 1969年7月5日[2]は、ドイツピアノ奏者。[3][4][5]「鍵盤の獅子王」等のキャッチコピーで知られる。[6]

ライプツィヒ出身。4歳の頃から母親の手解きでピアノを始め、[7]1891年から1899年まで生地にてアロイス・レッケンドルフの指導を受ける。1899年にはオイゲン・ダルベールのレッスンを受け、アレクサンドル・ジロティにも師事。1900年にはロンドンでのコンサートを成功させて演奏家デビューを飾る。その翌年にはアルトゥール・ニキシュに招聘されてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演し、ドイツ国内でも名声を得た。[8]また、1905年にはパリで開催されたアントン・ルビンシテイン記念音楽コンクールのピアノ部門で優勝。[9]1908年から録音活動を始め、1909年には史上初の協奏曲録音として、ランドン・ロナルドの指揮するロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団とエドヴァルド・グリーグのピアノ協奏曲の短縮版を録音している。[10]1912年にはニューヨークで開催されたブラームス音楽祭に出演してアメリカ・デビューを飾った。1921年には南アメリカに足を延ばし、アルゼンチンのブエノスアイレスでコンサートを開いている。1930年にはスイスのルガノに移住。1933年にはアドルフ・ヒトラーと知り合い、ドイツ芸術家グループの顧問となった。1936年にはナチス政権から名誉教授の称号を贈られている。[11]第二次世界大戦後、1946年にスイスに帰化したが、ナチスとのかかわりを疑われて1954年にカーネギー・ホールでリサイタルを開くまで渡米出来なかった。[12]アメリカから戻る途上で初来日を果たし、日比谷公会堂での演奏会の他、宮内庁楽部演奏室で香淳皇后三笠宮妃の臨席下で演奏したり、高松宮妃の要請を受けて神田共立講堂でガン研究緊急援助資金獲得のための特別演奏会を開いたりした。高松宮妃からは演奏後に赤十字有功賞が贈られた。[13]教育活動としては、1905年から1907年までイギリスのマンチェスター王立音楽院で教鞭を執り、1907年にゾンダースハウゼン音楽院に移ったが、マンチェスターの音楽院に戻り、1912年まで奉職。[14]1925年にはカーティス音楽院で教えた[15]が、その後は演奏活動に専念している。

1969年にケルンテンの音楽祭に参加し、オシアッハ湖畔の修道院教会でリサイタルを開いたが、6月28日のコンサートでルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番の第3楽章を演奏中に体調を崩した。医師によるリサイタル中止の進言を退け、終楽章の演奏の代わりにロベルト・シューマンの小品やフランツ・シューベルトの変イ長調の即興曲を演奏してリサイタルを閉じた。この演奏会の模様は、デッカ・レーベルにより録音され、販売されている。[16][17] リサイタルの終了後にフィラッハの病院に搬送されたが、当地で没した。[18]

脚注

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  8. 岩井 (1993) 岩井宏之 ヴィルヘルム・バックハウス 武骨で質実剛健 充実したエネルギーを放射して 強い説得力を持つ [ クラシック不滅の巨匠たち ] 音楽之友社 1993 1062221031804 118
  9. このピアノ部門で2位になったのがベーラ・バルトークだった。(アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ)
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