五経博士

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五経博士(ごきょうはくし)は、中国古代の官職の一つ。宣帝から元帝にかけて宗廟や郊祀の祭りが儒学の礼によって行われるようになり、儒学の国教化が確立された。

『漢書』漢書儒林侍繋に武帝五経博士を立つと書かれている。これは漢の武帝の時、この五経を講義する五経博士がおかれ、儒学の官学化が推進されたと解釈され、定説になっている。

自武帝立五経博士弟子員、設科射策、勧以官禄、訖於元始、 ・・・初、書堆有欧陽、禮后、易楊、春秋公羊而巳。

ここで四経を言うだけで、なぜ詩をあげないのかが問題とされている[1]。詩についてはすでに膏の三家に分れていたから、「唯有」の中に数えるわけにいかないので故意に省略したと陳揆は解釈する。建元以前め博士は単に学者であることを意味している。

『漢書』百官公卿表上によれば、

博士は秦官。古今に遁ずるを掌る。秩比六百石。員多きは敷十人に至る。

とされており、「博士は秦宮」と記載されている。しかし、博士は寅は秦において創設された官職とはいえず、春秋時代にまで朔り得る。儀休・買絃・淳子莞が魯・貌・筑間の博士官であったとの記述があるからである。

博士は法家や儒家の学者にのみ限定されていたわけではない。「始皇本紀』に「始皇祭しまず。博士をして仙異人の詩を矯らしむ」とあるのは、皇帝の求めに応じて、様々な分野の専門家がいたことが推察されている。

日本に渡来した五経博士[編集]

当時、 日本において学者の意味である「博士」は百済などからの渡来者に限られていた。『日本書紀』に見られる五経博士に関する記述は次がある。

継体七年夏六月。百済遣姐彌文貴将 軍、洲利即爾 将軍、副穗積 臣押 山、貢五経博士段楊爾
継体十年秋九月。百済遣・・・・別貢五経博 士漢高安茂、請代博士段楊爾
欣明十五年二月。五経博士王柳貴代固得馬丁安
当時において、五経博士と僧侶は交代で日本に渡来していたことが分かる。
  1. 宮本勝『五経博士について』北海道大学人文科学論集,Vil13,1976年