「井上幻庵因碩」の版間の差分

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[[1835年]](天保6)38歳、7月、松平家の碁会。
 
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[[1839年]](天保10)12月、42歳で12月、名人願書を幕府に提出した。
 
[[1839年]](天保10)12月、42歳で12月、名人願書を幕府に提出した。
1840年(天保11年)、本因坊秀和との四番争碁を打つ。第1局は打ち掛け7回の末に秀和先番4目勝ちとなり、途中2度下血した因碩は碁所願いを取り下げた。
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1840年(天保11年)、[[本因坊秀和]]との四番争碁を打つ。第1局は打ち掛け7回の末に秀和先番4目勝ちとなり、途中2度下血した因碩は碁所願いを取り下げた。
 
[[1846年]](弘化3)49歳、7~8月、大坂にて本因坊秀策と対局した。
 
[[1846年]](弘化3)49歳、7~8月、大坂にて本因坊秀策と対局した。
 
[[1847年]](弘化4)50歳、島原を訪問した。
 
[[1847年]](弘化4)50歳、島原を訪問した。
[[1848年]](嘉永元年)に隠居して幻庵を号し、秀徹が十二世井上因碩となる。しかし秀徹は[[1850年]](嘉永3年)に門人斬殺の事件を起こして退隠、後継者を予定していた服部正徹が旅行中であったため、林家門人の松本錦四郎に家督を継がせて十三世井上因碩とした。
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[[1848年]](嘉永元年)に隠居して幻庵を号し、秀徹が十二世井上因碩となる。しかし秀徹は[[1850年]](嘉永3年)に門人斬殺の事件を起こして退隠、後継者を予定していた服部正徹が旅行中であったため、林家門人の松本錦四郎に家督を継がせて十三世井上因碩([[井上松本因碩]])とした。
 
1859年(安政6年)没。
 
1859年(安政6年)没。
  
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*[[本因坊丈和]]は、[[本因坊秀和]]と因碩の碁を並べながら「因碩の技、じつに名人の所作なり、ただ、惜しむらくは、その時を得ざるなり」と語ったという。
 
*[[本因坊丈和]]は、[[本因坊秀和]]と因碩の碁を並べながら「因碩の技、じつに名人の所作なり、ただ、惜しむらくは、その時を得ざるなり」と語ったという。
 
*[[本因坊元丈]]、[[安井知得仙知]]、[[本因坊秀和]]とともに[[囲碁四哲]]と称される。
 
*[[本因坊元丈]]、[[安井知得仙知]]、[[本因坊秀和]]とともに[[囲碁四哲]]と称される。
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*碁盤全体を使うスケールの大きな棋風である。
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== 吐血の局 ==
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[[1835年]](天保6年)に浜田藩の家老で安井家門人(二段)でもあった[[岡田頼母]]が老中[[松平周防守]]に碁会を勧め、松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組んだ。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の[[赤星因徹]]を丈和に挑ませた。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして公儀に訴え出る算段であった。赤星はいったんは優勢に持ち込むが、丈和は「丈和の三妙手」を放ち、赤星を下した。この対局中赤星は血を吐き、その後26歳の若さで死亡した。ここからこの一局を「吐血の局」と呼んでいる。
  
 
== 門下生 ==
 
== 門下生 ==

2017年9月15日 (金) 00:14時点における最新版

井上幻庵因碩(いのうえ げんなんいんせき、1798年(寛政10年) - 1859年(安政6年))は、江戸時代囲碁棋士。2016年、囲碁殿堂入り。

経歴[編集]

出生地、実名は不明。姓は橋本とされる。1803年(享和3年)6歳で井上家の服部因淑に入門した。1809年(文化6年)、12歳で初段となり、師の因淑の元の名である因徹を名乗る。翌年服部家の養子となって服部立徹と改名した。1819年(文政2年)に井上家跡目として井上安節を名乗る。同年五段で、御城碁に初出仕し、本因坊元丈に先二の二子局で1目勝ちした。1824年文政7年に十世井上因砂因碩が隠居して家督を継ぎ、十一世井上因碩となり、六段昇段。1827年(文政10)30歳、林元美とともに、上手に昇段。1828年(文政11年)、八段準名人となる。 1835年(天保6)38歳、7月、松平家の碁会。 1839年(天保10)12月、42歳で12月、名人願書を幕府に提出した。 1840年(天保11年)、本因坊秀和との四番争碁を打つ。第1局は打ち掛け7回の末に秀和先番4目勝ちとなり、途中2度下血した因碩は碁所願いを取り下げた。 1846年(弘化3)49歳、7~8月、大坂にて本因坊秀策と対局した。 1847年(弘化4)50歳、島原を訪問した。 1848年(嘉永元年)に隠居して幻庵を号し、秀徹が十二世井上因碩となる。しかし秀徹は1850年(嘉永3年)に門人斬殺の事件を起こして退隠、後継者を予定していた服部正徹が旅行中であったため、林家門人の松本錦四郎に家督を継がせて十三世井上因碩(井上松本因碩)とした。 1859年(安政6年)没。

棋風[編集]

吐血の局[編集]

1835年(天保6年)に浜田藩の家老で安井家門人(二段)でもあった岡田頼母が老中松平周防守に碁会を勧め、松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組んだ。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の赤星因徹を丈和に挑ませた。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして公儀に訴え出る算段であった。赤星はいったんは優勢に持ち込むが、丈和は「丈和の三妙手」を放ち、赤星を下した。この対局中赤星は血を吐き、その後26歳の若さで死亡した。ここからこの一局を「吐血の局」と呼んでいる。

門下生[編集]

参考文献[編集]