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劉連仁は([[山東省]][[イ坊市]][[高密県]])草泊村の農民だったが、1944年の某日、村内の他家の葬式に向かう途中に、[[汪精衛]]政権の兵士に捕えられ、近郷の農民たちとともに尤河頭に集められた後、張家墩、棗行、高密県へと連行され([[#地図|地図参照]])、同県の[[日本人合作社]]に監禁された後、[[青島]]の[[華北労工協会]]に移された<ref>石飛(1973)pp.41-42。NHK(1994,p.202)は、同年秋、農作業中に日本軍に捕まった、としている。</ref>。
  
 
1944年11月に、劉は約800人の被収容者とともに船に乗せられ、日本へ送られた<ref>石飛(1973)pp.41-42</ref>。[[門司]]に到着後、200人ほどが汽車で北海道へ送られ、[[雨竜郡]]沼田村の明治鉱業昭和鉱業所に到着した<ref>石飛(1973)p.43</ref>。
 
1944年11月に、劉は約800人の被収容者とともに船に乗せられ、日本へ送られた<ref>石飛(1973)pp.41-42</ref>。[[門司]]に到着後、200人ほどが汽車で北海道へ送られ、[[雨竜郡]]沼田村の明治鉱業昭和鉱業所に到着した<ref>石飛(1973)p.43</ref>。
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[[中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会]]は、この問題を「侵華戦争にもとづく中国人俘虜殉難事件の1つ」だとして、即時帰国を実現し、日本政府がしかるべき説明や正当な補償を行うべきだとの声明を発表した<ref name="杉原(2002)p.180">杉原(2002)p.180</ref>。
 
[[中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会]]は、この問題を「侵華戦争にもとづく中国人俘虜殉難事件の1つ」だとして、即時帰国を実現し、日本政府がしかるべき説明や正当な補償を行うべきだとの声明を発表した<ref name="杉原(2002)p.180">杉原(2002)p.180</ref>。
  
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事件は当時、新聞やラジオで全国に伝えられ、大きな反響を呼んだとされる<ref>NHK(1994)p.201</ref>。
 
== 日本政府の見解 ==
 
== 日本政府の見解 ==
 
日本政府は劉連仁に「不法入国」「不法残留」の疑いがあるとして、調査のための出頭を命令し、[[札幌入国管理事務所]]の係官が劉のいる旅館を訪問した<ref>石飛(1996)p.120</ref>。
 
日本政府は劉連仁に「不法入国」「不法残留」の疑いがあるとして、調査のための出頭を命令し、[[札幌入国管理事務所]]の係官が劉のいる旅館を訪問した<ref>石飛(1996)p.120</ref>。
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* 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、{{ISBN|4-00-430785-6}}
 
* 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、{{ISBN|4-00-430785-6}}
 
* 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、{{ISBN|4768400744}}
 
* 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、{{ISBN|4768400744}}
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* NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、{{ISBN|4140801670}}
 
* 石飛(1973) 石飛仁『中国人強制連行の記録-花岡暴動を中心とする報告』太平出版社、1973年、{{全国書誌番号|71002177}}
 
* 石飛(1973) 石飛仁『中国人強制連行の記録-花岡暴動を中心とする報告』太平出版社、1973年、{{全国書誌番号|71002177}}
  

2018年1月14日 (日) 22:22時点における版

劉連仁事件(りゅうれんじんじけん)は、1958年2月8日北海道石狩郡当別町の山中で、1945年7月に明治鉱業昭和鉱業所から脱走し行方不明となっていた劉連仁が発見された事件。劉は1944年に中国・山東省から日本へ連行された元華人労務者だった。日本政府(岸信介内閣)は、劉に不法入国・不法残留の疑いがあるとし、また中国人強制連行の事実関係を否定。日本の民間団体や中国のメディアの批判を受けて、劉に見舞金を渡そうとしたが、劉は日本政府を批難し、損害賠償請求を留保するとの声明を発表して、中国に帰国。1996年に日本政府に損害賠償を請求する訴訟を提起した。

劉連仁の経歴

劉連仁は(山東省イ坊市高密県)草泊村の農民だったが、1944年の某日、村内の他家の葬式に向かう途中に、汪精衛政権の兵士に捕えられ、近郷の農民たちとともに尤河頭に集められた後、張家墩、棗行、高密県へと連行され(地図参照)、同県の日本人合作社に監禁された後、青島華北労工協会に移された[1]

1944年11月に、劉は約800人の被収容者とともに船に乗せられ、日本へ送られた[2]門司に到着後、200人ほどが汽車で北海道へ送られ、雨竜郡沼田村の明治鉱業昭和鉱業所に到着した[3]

その後、明治鉱業昭和鉱業所の石炭の採掘現場で働かされていたが、1945年7月頃、重労働と虐待に耐えかねて収容所を脱走し、以後13年余の間、北海道の山中で逃亡生活を続けていた[4]

劉連仁の保護

1958年2月8日に劉は北海道石狩郡当別町の山中で、猟師または農民によって発見され、その後、札幌華僑総会劉智渠、李振平らによって札幌市内の旅館に保護された[5]

中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会は、この問題を「侵華戦争にもとづく中国人俘虜殉難事件の1つ」だとして、即時帰国を実現し、日本政府がしかるべき説明や正当な補償を行うべきだとの声明を発表した[6]

事件は当時、新聞やラジオで全国に伝えられ、大きな反響を呼んだとされる[7]

日本政府の見解

日本政府は劉連仁に「不法入国」「不法残留」の疑いがあるとして、調査のための出頭を命令し、札幌入国管理事務所の係官が劉のいる旅館を訪問した[8]

これに対して、劉は、「私の身分については岸総理大臣に聞いてください」という拒否通知書と、明治鉱業と日本政府に補償を求める抗議声明を渡した[9]

  • 劉が発見された当時の総理大臣・岸信介は、1942年東條内閣が「華人労務者の内地移入」(中国人の日本への強制連行)を閣議決定したときに担当大臣の商工大臣で、本格的な「移入」を決定した1944年の次官会議決定に軍需省次官として署名していた[10]

日本政府は、戦時中の中国人強制連行問題についての認識を問われることになったが、「当時の事情を明らかにするような資料もなく、現在としてはそれを確かめる方法がない」として事実関係への言及を避け、劉は契約労働者として日本に出稼ぎに来ていただけで、強制的に連れて来られたとか、戦争捕虜として連れて来られたという問題ではないとの見解を発表した[11]

日本政府への抗議

日本政府の見解・対応に対して、日本の民間団体や、中国の新華社北京放送人民日報が抗議した[6]

岸内閣は、愛知揆一内閣官房長官名で劉に「長い間苦労されたとのことで、まことにお気の毒に存じます」という文言の入った手紙と「金一封」を届けようとしたが、劉は受け取らず、日本政府は古い国際犯罪を隠そうとして新しい国際犯罪を犯している、と非難し、「日本政府に対する賠償を含む一切の請求権は、将来中華人民共和国政府を通じて行使するまで、これを留保する」との声明を発表し、同年4月10日に、第8次中国人殉難者遺骨送還船・白山丸に乗船して中国に帰国した[12]

帰国後の処遇

劉は1958年4月15日に中国に帰国[13]

中国政府は、劉を抗日闘争体験者、国民的な英雄として保護し、『人民中国』紙で劉の体験談を大きく伝え、出身地の人民公社の共産党支部書記の幹部として処遇した[14]

1973年当時、劉は、山東省高密県井構公社草泊大隊革命委員会副首席となっていた[15]

1982年夏に教科書問題が日中間の懸案事項となったとき、劉は自らの体験を発表[14]

1985年8月15日の『人民中国』でも中国人強制連行の体験談が大々的に取り上げられた[14]

1991年11月10日のTBSテレビ報道特集』で劉連仁の来日が報じられ、外務省が「事実関係については証言などである程度裏付けられていると思う」と救済について前向きな見解を示したことが注目された[16]

損害賠償請求裁判

1996年に劉連仁は、東京地裁に、日本政府に損害賠償を請求する裁判を提起した[6]

劉は審理中の2000年9月に87歳で没したが、息子の劉煥新が裁判を継続した[6]

2001年7月12日に判決が下され、強制連行・強制労働の被害に対する損害賠償請求権は認められなかったが、1947年国家賠償法施行以後の期間に関して、救済義務違反についての損害賠償が認定された[17]

国側が控訴し、2002年当時、東京高裁で係争中[18]

関連文献

  • 欧陽文彬(著)三好一(訳)『穴にかくれて14年-中国人俘虜劉連仁の記録』新読書社、1959年、NDLJP:1669135 (閉)
    • 原著:欧陽文彬『劉連仁』新文芸出版社、1958年(国立国会図書館蔵書)
    • 改版:『穴にかくれて14年-強制連行された中国人の記録』三省堂、1972年
    • 再版:『穴にかくれて14年-日本へ強制連行された中国人労働者劉連仁の脱出記録』新読書社、2002年

地図

脚注

  1. 石飛(1973)pp.41-42。NHK(1994,p.202)は、同年秋、農作業中に日本軍に捕まった、としている。
  2. 石飛(1973)pp.41-42
  3. 石飛(1973)p.43
  4. 杉原(2002)p.179、石飛(1996)p.118
  5. 新美(2006)p.306、杉原(2002)p.179、石飛(1996)pp.120,165
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 杉原(2002)p.180
  7. NHK(1994)p.201
  8. 石飛(1996)p.120
  9. 石飛(1996)p.120
  10. 石飛(2010)p.221、杉原(2002)p.180
  11. 新美(2006)p.205、石飛(1996)p.121
  12. 杉原(2002)p.180、石飛(1996)p.121,165
  13. 石飛(1996)p.118
  14. 14.0 14.1 14.2 石飛(2010)p.221
  15. 石飛(1973)p.50
  16. 石飛(1996)p.167
  17. 杉原(2002)p.181
  18. 杉原(2002)p.181

参考文献

  • 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
  • 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
  • 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
  • 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、4768400744
  • NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670
  • 石飛(1973) 石飛仁『中国人強制連行の記録-花岡暴動を中心とする報告』太平出版社、1973年、全国書誌番号:71002177