宅見勝

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宅見 勝(たくみ まさる、昭和11年(1936年)5月22日[1] - 平成9年(1997年)8月28日)は、日本ヤクザ指定暴力団・五代目山口組若頭宅見組初代組長、旧福井組若頭。兵庫県神戸市出身[2]

来歴

昭和11年(1936年)5月22日、兵庫県神戸市で、宅見勝は生まれた[2]

昭和34年(1959年)、宅見勝は、大阪市の土井組系組員となった。その後、土井組は解散した[2]

昭和38年(1963年)、三代目山口組(組長は田岡一雄福井組福井英夫組長は、宅見勝に盃を与え、宅見勝を福井英夫の若衆にした[2]

昭和45年(1970年)、福井英夫は、宅見勝を福井組若頭に据えた[2]

昭和53年(1978年)、田岡一雄は、山口組若頭山本健一山健組組長)の推薦を受け、宅見勝に盃を与え、田岡一雄の若衆にした[2]

同年、田岡一雄は、若頭代行を新設し、山本健一を療養させようと考えた。田岡一雄は、二代目細田組細田利明組長を呼び、山本健一が若頭代行新設に賛成かどうかを、確認して来るように命じた。

同年11月14日、細田利明と宅見勝は、東京白山の山本健一のマンションを訪ねた。山本健一のマンションには、高知市豪友会中山勝正組長、尼崎市真鍋組真鍋展朗組長、角定一家木村茂夫総長がいた。山本健一は、若頭代行新設案への返事を保留した。

同日、大阪高等裁判所は山本健一の保釈取り消しを決定した。

同日、山本健一は、東京・白山のマンションで、大阪府警の捜査員に「住居制限違反」で拘束され、収監された。

昭和57年(1982年)1月20日、山本健一は肝硬変を悪化させ、腹部に水がたまったために、大阪刑務所併設の医療刑務所に移された。細田利明と宅見勝が山本健一を見舞った。

同年2月4日、大阪府大阪市生野区巽南の今里胃腸病院で、山本健一は、肝硬変腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。宅見勝は、竹中正久を山口組四代目に推すグループに属した。
詳細は 山口組四代目跡目問題 を参照

同年6月5日、山口組若頭補佐筆頭・山本広山広組組長)は、組長代行に就任した。

同年6月15日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀組小田秀臣組長、中西組中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)、竹中組竹中正久組長(後の四代目山口組組長)、豪友会中山勝正会長(後の四代目山口組若頭)、溝橋組溝橋正夫組長が出席し、竹中正久の若頭就任が了承された。

同年7月1日、宅見勝が若頭補佐になった。

昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。

同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田組加茂田重政組長、佐々木組佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。

同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。

同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。

山口組福井組福井英夫組長は、宅見勝に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市弘田組弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。

同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。

同年6月23日、竹中正久は、若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本組岸本才三組長を据えた。竹中正久は、渡辺芳則(後の五代目山口組組長)、宅見勝、嘉陽組嘉陽宗輝組長、一心会桂木正夫会長、木村茂夫を若頭補佐に据えた。竹中正久は、竹中正久の弟・竹中武を竹中組組長に、竹中正久の弟・竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。

同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家大野鶴吉総長、今西組辻野嘉兵衛組長、松浦組松浦繁明組長、大日本平和会平田勝市会長、森会平井龍夫会長、草野一家草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長。霊代は、田岡一雄の未亡人・田岡文子。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡したが、田岡文子はその三分の一だけを受け取った

昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。
詳細は 山一抗争 を参照

昭和62年(1987年)2月、宅見勝は、長崎県一誠会植木紀雄会長(当時服役中)に盃を与えた[2]

昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。
詳細は 山口組五代目跡目問題 を参照

平成元年(1989年)2月27日、山口組定例総会で、竹中組竹中武組長の山口組若頭補佐就任が発表された。

同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。四代目山口組若頭渡辺芳則と四代目山口組組長代行・中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。

同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。

同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則と山口組本部長・岸本才三岸本組組長)と近松組近松博好組長が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し、竹中武の連れ戻しを協議した。しかし、宅見勝は、竹中武の連れ戻しに反対だった。宅見勝は、山口組心腹会尾崎彰春会長に依頼して、岸本才三に、竹中武の連れ戻しを断念させた。渡辺芳則も宅見勝の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になった。

同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。

同年5月18日、山口組本家で、渡辺芳則は、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、二代目森川組矢嶋長次組長、牛尾組牛尾洋二組長、森唯組森田唯友紀組長は欠席した。

同年5月27日、渡辺芳則は、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。渡辺芳則は、英組英五郎組長、倉本組倉本広文組長、黒誠会前田和男会長、弘道会司忍会長、芳菱会滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。渡辺芳則は、益田啓助を舎弟頭に据えた。渡辺芳則は、章友会石田章六会長、大石組大石誉夫組長、西脇組西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。二代目吉川組野上哲夫組長は、山口組総本部副本部長となった。益田組益田佳於組長、小西一家小西音松総長、伊豆組伊豆健児組長は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。

同年6月4日、岸本才三、西脇和美、神戸市の佐藤組佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った[3]

同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀の山口組脱退が発表された。

同年6月25日、竹中武は、中西一男、石田章六、倉本広文、前田和男の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺芳則の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。

同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次、森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。これを切っ掛けに山竹抗争が勃発した。
詳細は 山竹抗争 を参照

同年6月、植木紀雄が出所した[2]

同年7月5日、渡辺芳則の山口組守り刀相続の書類が整った。竹中武の使いが、守り刀を、桑田兼吉に届けた。

同年7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長、後見人は稲川会稲川聖城総裁、取持人は稲川会石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会中村益也会長、四代目今西組辻野嘉兵衛組長、三代目森会平井龍夫会長、二代目大日本平和会平田勝義会長、侠道会森田幸吉会長、工藤連合草野一家工藤玄治総裁、四代目小桜一家神宮司文夫総裁、住吉連合会堀政夫総裁。見届人は、導友会愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組谷口政雄組長、東亜友愛事業組合沖田守弘理事長、双愛会石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[4]

その後、大垣市中谷組中谷利明組長が、竹中武に同調する発言をしたため、宅見勝よりヤクザから引退させられた。

同年8月、森田唯友紀はヤクザから引退した。

同年8月、矢嶋長次はヤクザから引退し、山田忠利が二代目矢嶋組を継いだ。

同年9月、渡辺芳則は、二代目矢嶋組・山田忠利組長を山口組直参にした[5]

同年9月7日、山口組宅見組一誠会組員が、長崎湊会吉田米作会長を拳銃で撃ち、重傷を負わせた[6]

同年9月18日深夜、大阪府警は、「平成元年(1989年)9月19日午前7時45分大阪発長崎行きの全日本空輸161便で、宅見組東生会組員約100人が長崎に向かう」という情報を確認し、長崎県警に通報した[2]。長崎県警は約300人の警察官を動員して、警備をすることにした[7]

同年9月19日早朝、宅見組東生会(会長は東義生)組員98人がばらばらに集まって全日空161便に乗り込んだため、大阪府警は大阪国際空港で東生会組員の搭乗を阻止できなかった[8]

同日午前9時、東生会組員98人が長崎空港に到着した。長崎県警は、東生会組員98人を空港ビル3階に移し、身体検査を行った[8]。東義生は長崎県警の職務質問に対して「一誠会の抗争を止めようと、説得に来た」と主張した。長崎県警と東義生は、「一誠会を説得するために、東義生ら東生会幹部4人だけが一誠会に行く。残りの東生会94人は大阪に戻る」ということで合意した。東生会組員らはすでに帰りの便を予約していた[9]

同年9月27日午前2時50分ごろ、札幌抗争が勃発した。
詳細は 札幌抗争 を参照

同年10月5日、山口組直系組長会で、稲川会など他団体との抗争を厳禁をした。

同年11月5日、山口組本家で、竹中正久の組葬が営まれた。喪主は、中山きみよと発表されたが、中山きよみは列席しなかった。その後、山口組は、香典として3000万円を中山きよみに贈ったが、中山に突き返された。

平成2年(1990年)1月4日午後4時すぎ、札幌事件が勃発した。
詳細は 札幌事件 を参照

同年1月24日、竹中組組員が、山口県柳井市の元一和会幹部宅に侵入し、元幹部の家族から山本広の所在を聞き出そうとした。

同年2月15日、八王子事件が勃発した。
詳細は 八王子事件 を参照
同年6月28日午前2時すぎ、山波抗争が勃発した。
詳細は 山波抗争 を参照

その後、宅見勝は、元波谷組幹部・天野洋志穂を、宅見組副組長とした[10]

平成8年(1996年)7月10日、中野会会長襲撃事件が勃発した。
詳細は 中野会会長襲撃事件 を参照

同日、四代目会津小鉄若頭・図越利次(後の五代目会津小鉄会会長。三代目会津小鉄・図越利一会長の長男)ら会津小鉄最高幹部が、山口組総本部を訪れ、会津小鉄系組員が、山口組若頭補佐・中野太郎を襲撃したことを詫びた。山口組若頭宅見勝は、図越利次らの謝罪を受け入れ、中野太郎と協議することなく、和解した。

中野太郎は、当事者である自分を抜きにした宅見勝の裁定に、激しい不満を抱いた。中野太郎と宅見勝は、激しく対立した。

平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。
詳細は 宅見若頭射殺事件 を参照

同日4時32分、宅見勝は、搬送先の神戸市立中央病院で死亡した。

脚注

  1. 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4]の「五代目山口組本家組織図」
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.158
  3. 通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する
  4. 通常は、襲名相続式典の祝儀の半分を、先代組長の未亡人に贈る。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
  5. 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.8
  6. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.186
  7. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.187
  8. 8.0 8.1 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.188
  9. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.189
  10. 出典は、芹沢耕二鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9のP.154

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参考文献


先代:
宅見組組長
初代: 1967 - 1997
次代:
入江 禎