寛蓮

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寛蓮(かんれん、874年 - ?)は、平安時代の僧で、日本で初めて「碁聖」と呼ばれた人物である。囲碁のルールを確立したと言われる。


経歴

874年)貞観16年)、肥前藤津郡(佐賀県)生まれ。宇多天皇に譲位後もつかえ、天皇の勅命で「碁式」という囲碁のルールや心構えなどを記した書物を作り、913年(延喜13年)5月3日に醍醐天皇に献上したと伝えられる。実物は残っていないが、それをもとにした玄尊の『囲碁式』(1199)によれば,碁に関する礼法,戦術,用具など全般にわたる書であったと考えられている。『西宮記』(さいきゅうき、平安時代)には醍醐天皇が寛蓮と右少弁清貫を呼び寄せて囲碁の対局をさせた。寛蓮が勝ち、唐綾(中国渡来の綾織物)四疋を与えられ、そのほか給与が支給されたとされる。

今昔物語

『今昔物語集』「碁擲(ごうち)の寛蓮、碁擲の女に値(あ)ひたる語(こと)」には、醍醐天皇と寛蓮が「黄金の枕」を賭けて対局し、上皇は取り返させようと若い殿上人を遣わせたが、寛蓮は追ってきた人にニセモノをつかませて一杯食わせ、その金の枕を資金にして仁和寺の東に弥勒寺を創建したとする逸話がある。醍醐天皇はうまかったが、寛蓮には二子だったという。


記念碑

鹿島市では寛蓮の故郷にちなんで、1952年(昭和27)年から毎年春に祐徳稲荷神社において「祐徳本因坊戦」が開催されている。 祐徳稲荷神社外苑には「碁聖寛蓮之碑」があり、台座には歴代本因坊の名が刻まれている[1]


参考文献