引揚者

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引揚者(ひきあげしゃ)とは戦前戦中台湾朝鮮半島南洋諸島などの外地や日本から多数の入植者を送っていた満州(法律上は外国)、そして内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った樺太などに移住(居住)していた日本人で、敗戦に伴い日本本土に帰った者を指す。

概説

一般的に「引揚者」の呼称は非戦闘員に対してのみ用いられ、日本軍の軍人として外地・外国に出征し、その後帰還した者に対しては用いない(これらの者は「復員兵」もしくは「復員者」などと呼ばれた)。

GHQ/SCAPダグラス・マッカーサー総司令官は人道的立場から引き揚げを早期に終了させるつもりでおり、実際に東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島の北緯38度線以南などからの引き揚げは比較的スムーズであり、1946年には9割以上達成された。しかし、満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連占領下の地域では引き揚げが遅れ、1947年になってようやく完了した。

この遅れはソ連が占領下の日本人をシベリア建設に利用しようとしていたいうこと、また満州地区が国共内戦で政情不安定だったということなどが影響したと見られている。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられることになる。またソ連兵は規律が緩く、占領地のあちこちで強姦・殺傷・略奪を繰り返したため、戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。

とりわけ満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も少なくない。また戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。また、満州国政府には多くの台湾人が官吏として採用されていたため(新京市長は台湾人である)彼らの台湾引き揚げも問題となったが、そのことは日本ではほとんど語られていない。

引揚者だった著名人

ここでは50音順に一部のみ示す。★は故人。詳しくはCategory:引揚者を参照。

持込制限

GHQは外地からの内地への資産持ち込みによるインフレーションを懸念し、引揚者が持ち込んだ通貨、証券類の多くを税関などで預託させる措置を行った。税関は1953年より預託品の返還を行っているが、50年以上経った現在でも持ち主が現れない現金、証券類が保管されている。

引揚者が上陸した主な港

引き揚げを題材とした文学作品

  • 赤い月
    なかにし礼の自伝的小説。引き揚げの過程で子供たちを守り抜いた母親のことをつづり、後に映画・テレビドラマ化。
  • 流れる星は生きている
    藤原ていの自伝小説。新田・藤原夫妻が離れ離れになりながらも日本に引き揚げるまでのいきさつをつづり、後に映画・テレビドラマにもなった。当時新田は満州の気象台の職員であり、引き揚げ後は気象庁に帰属。富士山レーダー設置にかかわり、退職後妻の後を追い小説家に転身した。
  • 砲撃のあとで
    三木卓の作品。満州引き揚げを題材にした作品で、芥川賞受賞作。

関連項目

外部リンク

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