本因坊算砂

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本因坊算砂(ほんいんぼう さんさ、1559年(永禄2年)- 1623年6月13日( 元和9年5月16日))は、囲碁棋士。初代本因坊であり、本因坊家の始祖である。安土桃山時代後期から江戸時代にかけて活躍し、日本の囲碁界の基礎を築いた。2004年、囲碁殿堂入りした。

経歴

1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納与三郎として生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の日淵上人に弟子入りして出家した。 仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。1587年(天正15年)閏11月13日、徳川家康は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の奥平信昌が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものである。 1603年(慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。 後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、権大僧都の位に上った。 1611年(慶長16年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。 1623年(元和9年)5月16日、後継の算悦の後見を弟子の中村道碩に託して死去した。

人物

  • 林元美(1778-1861)の著書『爛柯堂棊話』には、織田信長豊臣秀吉徳川家康の三武将と囲碁を通じて接したと記されている[1]
  • 1578年(天正6年)、織田信長に「そちはまことの名人なり」と褒めたたえられ、「名人」の用語の起源とされている。
  • 『兼見卿記』は

 三月十七日、丙辰、信長に見廻のため罷り出ず。作の碁盤、其の内へ菓子を入れ之を持参す。仕立の珍敷之皆之を感ず。一段懇之礼也[2]。 と記しており、信長が碁に関心があったことを示す。

  • 『伝信録』は

 慶長十七壬子年、権現様より下置かれ候御切米御書出しの写碁打衆将棊指衆御扶持方給し候事  一 五拾石五人扶持 本因坊 と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。

  • 墓所は京都寂光寺である。
  • 辞世の句は「碁なりせば 劫なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。
  • 1923年(大正12年)には、寂光寺で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。

棋風

門下生

参考文献

  1. 林元美『爛柯堂棋話』平凡社,1978
  2. 吉田兼見『兼見卿記』1575年