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*若林不比等「満州農民になるまで(体験談)」『百姓』1932年4月号<ref>安田常雄『日本ファシズムと民衆運動』れんが書房新社、1979年、p.537 註 第II章第二部(二)(P.209-224)(32)</ref>
 
*若林不比等「満州農民になるまで(体験談)」『百姓』1932年4月号<ref>安田常雄『日本ファシズムと民衆運動』れんが書房新社、1979年、p.537 註 第II章第二部(二)(P.209-224)(32)</ref>
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*-「久遠の苦悩と向上」『雄弁』v.12 n.10 1921年10月号、pp.364-365、{{NDLJP|11006713/202}}
  
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**初出:日猶関係研究会、1953年
 
**初出:日猶関係研究会、1953年
 
**新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163
 
**新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163
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若林 不比等(わかばやし ふひと、1896年? - 1961年?)は、日本・旧満洲の宗教活動家、雑誌編集者、農場経営者、特殊工作員。明治大学在学中の1919年に妹尾義郎らと大日本日蓮主義青年団の設立に関与。1921年に団の活動を離れ、雑誌『雄弁』の編集者を経て、1923年に川上初枝と結婚して渡満。復県関子日高見農場を経営する一方で、関東軍参謀本部特務機関と連絡を取り、篁 白陽(たかむら はくよう)を名乗って篁の一団と呼ばれたグループを形勢し、日本の占領統治下の東北地方華北地方朝鮮半島などで、世界紅卍字会と現地の宗教団体を通じた宣撫・宣伝活動に携わった。

終戦前後には、満洲国から紅卍字会を通じて三京公司の特務機関のゲリラ活動に提供された資金の流れに関与したとされ、終戦後、日高見農場へ戻り、中国語黄 理然と変名して農業に従事していたが、1961年に「帝国主義日本の長期潜伏スパイ」として旅順・大連の公安局に検挙され、「法に従い処理」された。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

生い立ちについては未詳。大連市 (2004 127-128)によると、役人の家に生まれ、父は日本の高級官僚だったという。

大日本日蓮主義青年団[編集]

1918年(大正7)頃、明治大学在学中に[1]本多日生浅草統一閣で開講していた顕本法華宗の講義を聴講。1919年に同講座の聴講生だった妹尾義郎らとともに大日本日蓮主義青年団を設立した。1921年7月頃まで同団で、各地での布教活動や児童向けの日曜学校の開催、団の機関誌『若人』の編集・発行などの活動に携わっていた。[2][3]

  • 妹尾 (1974b 141-142)によると、若林は身体に何らかのハンディキャップを負っていたらしく、妹尾はそれが信仰の動機になったのではないか、と推測している。
  • 活動中の1921年3月頃、妹尾を訪問してきた川上初枝と出会う[4]

1921年(大正10)7月頃、若林は団の活動を離れたとみられる[5]。同年10-11月頃には、雑誌『雄弁』の記者をしていた[6]

渡満[編集]

1923年(大正12)3月頃、川上初枝と結婚し、満洲へ渡る。

  • 同月20日の妹尾義郎の日記(妹尾 1974b 301)には、「若林君が久しぶりに来訪した、初枝さんと大連に新婚旅行といふことだ、態度がだんゞゝ世なれて凡化するやうに思へた。悲しいことだ、でも信仰丈けはしっかり頼むぞ。(…)」とある。
  • 大連市 (2004 127-128)によると、若林(篁)はこの年、27歳で川上初枝と共に復県関子にやって来て、義父の川上賢三から農場の経営を引き継ぎ、日高見農場と名付けた。農場は関東軍の特務機関である三京公司の下部組織の一つだった、という。

1928年6月16日-17日に、若林の農場でタバコの耕作のため雇用されていた中国人労働者40名が、賃金を月払いではなく日払いにするよう要求してストライキを起した[7]

若林は、1930年4月時点で瓦房店の「満洲果樹組合」の理事、「南満洲煙草耕作組合」の監事、同年11月時点で「大連・満洲農事協会」の会務委員を務めていた[8]

篁白陽[編集]

三村 (1953 222,299-300)は、若林が、大陸に渡った後、篁白陽と名乗り、世界紅卍字会を舞台に、『道慈研究所』の看板で独自の運動を展開し、妻・初枝(篁白光、日高みほ)、日高一輝西村茂舟田六郎竹内重郎らと、「篁の一団」と呼ばれたグループを形成していた、としている。また大久保弘一も関係していたという。

大連市 (2004 127-128)は、「篁不比等」は以下の活動をしていた、としている。

  • 1931年の満州事変の後、義父・賢三から指示を受けて、妻・初枝とともに日本に帰国し、東京で貴族院議員の井上清純、海軍少将・東郷(某)、海軍中将・小林(某)、小笠原長生、佐藤(某)、前陸相の宇垣大将および萩野中将らを訪問して、満州国建国への全面的な支持を訴えた。
  • 1932年に関東軍からの指示で世界紅卍字会に介入し、長期にわたり復県の紅卍字会の名誉会長、満州国の紅卍字総会責任会長の職務に就き、宗教団体をコントロールした。
  • 1937年に関東軍(の参謀本部)の意を受けて抗日活動をしていた謝文東の部隊を日本軍に投降させた。
  • 同年7月の盧溝橋事件の後、妻子とともに、長春憲兵隊の金沢中佐の紹介状を持って北平へ行き、日本の華北派遣軍(北支那方面軍)の特務機関と連絡を取って、嘱託に任命され、表向きは、中華紅卍字総会副会長の身分で、宗教を推進・普及するためとして、日本軍が侵入した後の華北地方で、中国の民衆の間に起っている問題を調査し、日本が華北を統治するための政策や宣撫工作を展開するための策略を提案した。

三村 (1953 264-265)は、篁白陽は川上初枝や藤原勇造とともに紅卍字会朝鮮主会の設立にも関与し、板垣機関による世界紅卍字会への浸透に関与していた、としている。

この間、1933年6月頃に義父・賢三が死去し、成城学園での葬儀に出席するため、同月18日に東京を訪れて、妹尾義郎と再会した[9]。同年8月に、千歳村の妹尾の家を買い取る約束をしたが、手形を履行せず、1935年に妹尾によって契約を解除されている[10]

離婚[編集]

1938年-1940年頃[11]、妻・初枝と離婚[12]。その後、満人の女性(大連市 2004 127-128によると、名前は「劉哲栄」)と再婚した[13]

  • 三村 (1953 299-300)は、初枝とは離婚後も思想的に不即不離の関係を保ち、同じ運動の線に活躍していたようだ、としている。

太平洋戦争の勃発後、1942年か1943年に大阪に移り、出雲大社教の「梅の宮教会」に滞在していたが、間もなく再び大陸に戻り、北京で暮らしていた[13]

終戦前後[編集]

大連市 (2004 127-128)によると、終戦前後には以下のような活動をしていた。

  • 1945年8月にソビエト軍が中国の東北地方に出兵し、日本の敗勢が決定的になると、関東軍参謀本部の特務機関員・戸川の「応変潜伏部署」を受け入れ、軍部からの指令に基づき、満州国総務庁次長・古海忠之の許可を得て、紅卍字会の活動経費として、中央銀行から300万元と2箱分の宝石類の横流しを受けた。また中央銀行から三京公司の預金200万元を受け取り、三京公司の特務機関が通化の一帯でゲリラ戦を展開するための資金を援助した。「篁は道院と紅卍字会を反共・防共の最後の砦にし、帝国主義日本の復活を待っていた。」
  • 日本が戦敗し降伏した後、篁は長春に留まった。
  • 1946年春に娘の川上正子が長春に篁を訪ねたとき、篁は道士に扮装して、正子と共に瓦房店の日高見農場へ戻った。農場へ戻った篁は、名前を中国風に黄理然と改めた。篁は農場主ではなくなっていたが、依然として農場のために働いた。
  • 土地改革のとき、篁と後妻の劉哲栄は「貧農階級」と認定され、以後は貧農としての生活を続けた。
  • (以下は大連市 2004 127-128の評価も反映していると思うが、そのまま記す。)篁は以前と変わらず「温和」で、「惜しみなく」農民に果樹栽培の技術を教え、「熱心に」頭痛や発熱を訴える同郷の患者たちを治療した。篁の「施し」は無駄にはならず、農民や大衆は素直に黄理然は「とても好い人」だと感じており、篁を「平和的で民主的な人」と称賛した。しかし、篁は川上初枝による扶鸞(占示)の言葉を忘れていなかった。「神は日本帝国を護ってくれます。あなたは祖国のことを心配する必要はありません。大陸に留まり、共産主義の拡大を阻止するのです」。

日本人潜伏スパイ事件[編集]

1961年2月、中国名「黄理然」を名乗っていた「篁不比等」は、復県と旅順・大連の公安局によって「帝国主義日本の長期潜伏スパイ」容疑で検挙され、中国の司法機関によって「法に従い処理された」[14]。容疑の詳細は、上記で大連市 (2004 )を出典として記したとおりである。

  • (編者評)戦時中の宗教工作については、三村 (1953 )の記述もおおまかな裏付けになっていると思われ、また終戦前後の満洲国の資金の持ち出しに関与したことが重大案件だったように思われるが、若林が本当に戦後10年以上も川上初枝の占示を信じて「いい人」を装いスパイ活動を続けていたのかは疑問が残るところである。

著作物[編集]

  • 若林不比等「満州農民になるまで(体験談)」『百姓』1932年4月号[15]
  • -「八幡大神と満州神宮」[16]
  • -「久遠の苦悩と向上」『雄弁』v.12 n.10 1921年10月号、pp.364-365、NDLJP 11006713/202

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 三村 1953 299-300は、東大出身、としているが、採らない。
  2. 妹尾 1974a 419
  3. 妹尾 1974b 1-230
  4. 妹尾 1974b 208-209
  5. 妹尾 1974b 230
  6. 『雄弁』v.12 n.10 1921年10月号奥付。『阿部次郎全集 第14巻』(角川書店、1962年、p.420)の同年11月10日の記事に、「若林不比等初対面、雄弁記者若林来訪、(…)」とある。
  7. 木村郁二郎『中国労働運動史年表 1557-1949』勇進社、1978年、JPNO 78031729、p.212
  8. 南満州鉄道株式会社殖産部農務課『満洲の農業団体』南満州鉄道株式会社殖産部農務課、1931年、GoogleBooks:YPCQEf4ipbIC、pp.86-87,90,39。
  9. 妹尾 1974d 165
  10. 妹尾 1974d 177,276,279
  11. 川上初枝は1938年頃から「内山若枝」を名乗っており、1940年6月頃、日高輝忠と再婚して「日高みほ」を名乗るようになったと思われる。詳細は川上初枝の記事を参照。
  12. 三村 1953 299-300。同書では離婚の時期は不定。
  13. 13.0 13.1 三村 1953 299-300
  14. 大連市 2004 127-128
  15. 安田常雄『日本ファシズムと民衆運動』れんが書房新社、1979年、p.537 註 第II章第二部(二)(P.209-224)(32)
  16. 『明治聖徳記念学会紀要』n.36、1931年、p.142、NDLJP 1148323/76 (閉)に書題が見える。

参考文献[編集]

  • 大連市 (2004) 大連市史辨公室『大連市志・公安志』方志出版社、2004年、ISBN 7801921321
  • 妹尾 (1974a) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第1巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020137
  • 妹尾 (1974b) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020138
  • 妹尾 (1974d) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第4巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570
  • 三村 (1953) 三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』八幡書店、1986年
    • 初出:日猶関係研究会、1953年
    • 新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163