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{{日本の市| 自治体名=豊橋市| 都道府県=愛知県| 支庁=| コード=23201-7| 隣接自治体=愛知県:[[豊川市]]、[[新城市]]、[[田原市]]、<br />[[小坂井町]]<br />[[静岡県]]:[[浜松市]]、[[湖西市]]| 木=[[クスノキ|くすのき]]| 花=[[ツツジ|つつじ]]| シンボル名=市の歌| 鳥など=豊橋市歌、躍進<br />豊橋音頭、ちぎり音頭| 郵便番号=440-8501| 所在地=豊橋市今橋町1番地<br /> [[画像:Toyohashi_City_Office.jpg|210px|center|豊橋市役所]]| 電話番号=0532-51-2111| 外部リンク=[http://www.city.toyohashi.aichi.jp/ 豊橋市]| 座標={{ウィキ座標2段度分秒|34|46|8.5|N|137|23|29.2|E|}}| 位置画像={{基礎自治体位置図|23|201}}| 特記事項=| }} '''豊橋市'''(とよはしし)は、[[愛知県]]の南東部にある[[都市]]で、[[東三河]]地方の中心都市である。[[中核市]]に指定されている。東三河の人口の約半数を占める[[中核市]]である。[[1906年]]に市制施行。[[路面電車]]の街として知られる。 ==歴史その他・捏造だらけなんで、皆さん注意してください。== 中世から江戸時代まで市の中央域は'''[[吉田城 (三河国)|吉田]]'''(よしだ)と呼ばれていた(吉田という地名は、当時全国各地にあったため、三州吉田と呼ばれることが多かった。また、明治維新後も同様の理由で、明治政府から全国にあって紛らわしいとのことから、改名を要求され、豊橋としている。吉良町の名鉄吉良吉田駅のほうが現存の名前としては著名。) 吉田は[[豊川]]と[[朝倉川]]の合流地点であり、[[渥美郡]]、[[宝飯郡]]、そして[[八名郡]]の境目に当たる。[[江戸時代]]には [[三河吉田藩|吉田藩]]の[[城下町]]、[[吉田宿]]の[[宿場町]]、[[豊川]]水運で栄えた湊町であった。1869年(明治2年)6月の版籍奉還で、吉田から豊橋に改称した。 市徽章は、徳川時代末、[[吉田城 (三河国)|吉田城]]に八代君臨した[[長沢松平家|長沢・松平]]・[[大河内氏|大河内]](ながさわ・まつだいら・おおこうち)家が用いていた[[馬印]]を横から見た形の'''千切'''(ちぎり)である。 市民は、「豊橋」を「と'''よ'''はし」ではなく「と'''よはし'''」と平板に発音することが多い。 東三河の人口の過半数を占める中核市であり、国勢調査[[推計人口]]は2007年10月1日現在愛知県第3位。2007年11月1日に発表した外国人登録人口が2万人を超えた。[[昼夜間人口比率]]は99.6%と100%を切っている。 三河港と豊川用水を擁し、貿易港と農業を主軸とする。16世紀の吉田城(今橋城)建築以来、東三河の中心に台頭し、江戸時代は特に、三州吉田藩の城下町、東海道53次の吉田宿・二川宿があり、幕末には7万石と岡崎藩・西尾藩を超え、旧三河国内では最大の勢力であったもよう。 ==市名の由来== 豊橋の名につき以下に述べる。明治新政府は当時の[[三河吉田藩|三河国吉田藩]]の藩名が[[宇和島藩#伊予吉田藩|伊予国吉田藩]](宇和島藩の支藩)(旧[[愛媛県]][[北宇和郡]][[吉田町 (愛媛県)|吉田町]]、現[[愛媛県]][[宇和島市]])に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した。その命を受け[[藩主]]は「豊橋、関屋、今橋」の三つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」と言う藩名とすることを命じた。その後[[廃藩置県]]の後も豊橋の名が使われる。 ===豊橋;とよばし:濁音(吉田大橋)=== ====徳川家康の家臣の酒井忠次による架橋 ==== [[徳川氏]]の武将の[[酒井忠次]]が、[[1570年]]([[元亀]]元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に[[吉田大橋]](土橋)を架ける土木工事を実施した。その後、[[池田輝政]]が、船町を整備し前城主・[[酒井忠次]]が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。『三州吉田記』に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、[[1591年]]([[天正]]19年)にこの土橋を船町へ移すと記す。江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。 この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよばし(豊橋:濁音)と名称を変更した。さらに、昭和に入ってから[[国道1号]]を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた'''吉田大橋'''(よしだおおはし)と、再び名付けた。この国道整備により、かつての東海道は[[愛知県道496号白鳥豊橋線]]として[[県道]]になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を'''豊橋'''(とよばし)とするようになった。 上記の『三州吉田記』の記述にあるように、[[酒井忠次]]の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、[[鎌倉時代]]の史書(『東関紀行』・『海道記』・[[阿仏尼]]の『うたたねの記』および『十六夜日記』)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。 [[三河物語]]では、[[松平清康]]の吉田城攻めの際に、吉田河を大舟小舟で打越し、舟を置くならば、との記載があり、橋がないことは史実として確実である。 なお、[[1505年]]築城~[[1522年]]まで今橋城(後の吉田城)と呼ばれていたことから、今橋という橋がそれ以前に存在したする説があるが史料の提示もなく間違いである。また、今橋という城名から、当時やそれ以前に今橋という地名だったとする説があるが、『三河国聞書』には、[[1498年]]吉田川という記述があり、当地が吉田と呼ばれていたことは間違いないようである。三河国で橋といえば、[[八橋]]が上記の史書にも登場するが、この八橋も橋ではなく、湿地を渡る板のようなものだったらしく、橋の付いた名前が必ずしも、実際の河川を渡るための旅人用の橋に由来するわけではない。 ====異説==== 初代の大橋は[[鎌倉時代]]であったという説がある。[[貞応]]3年([[1224年]])に今橋という橋が架けられたと言う。鎌倉時代の[[東海道]]は現在と異なり、現在地(城の辺り)より北で[[豊川]]を渡っていた。[[今橋城]]築城時、[[豊川]]と[[朝倉川]]の合流地点には既に「今橋」という橋があり、[[今橋城]]はその橋に由来して付けられたと言う。しかし、城が攻められ、「今橋(いまはし)」の音が「忌まわし(いまはし)」に通じ縁起が悪いと言うことで、[[1522年]]([[大永]]2年)に縁起の良い「[[吉田城 (三河国)|吉田城]]」へ変更されたと言う。 === とよかわ(清音)豊川・とよがわ(濁音)豊川の違い === 混同して記載される資料も多いため、以下詳細に記す。 清音の豊川(とよかわ)というのは、古代律令制の三河国宝飯郡'''豊川郷'''から由来する。平城宮出土木簡に「参河国寶飯郡豊川郷」。長岡京出土木簡に、「延暦10年豊川里」。鎌倉時代になって、鎌倉街道が整備されると、'''豊川宿'''として機能した。鎌倉時代の史書では、『海道記』に'''豊河の宿'''。『東関紀行』に「'''豊川といふ宿'''」。と記載される。そして、現在の愛知県豊川市に至る。 濁音の豊川(とよがわ)は、古代[[律令制]]では'''飽海川(あくみがわ)'''と呼んだ。この飽海(あくみ)というのは、[[渥美郡]]のことで、7世紀までは、'''飽海(あくみ)'''と書いたことが[[835年]]([[承和 (日本)|承和]]5年)の木簡([[太政官符]])から確認されている。その後、中世になって、室町時代から江戸時代まで'''吉田川'''と呼称したことが『三河国聞書』から確認できる。[[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年)成立の『[[三河物語]]』においても、'''吉田河'''と記載されている。[[1849年]]([[嘉永]]2年)の『[[徳川実紀]]』においても、吉田川と記載されている。愛知県図書館所蔵の江戸後期の三河国図においても、吉田川と記載されている。 中世から江戸時代まで、豊橋は吉田(三州吉田)と呼ばれていた。明治2年6月の版籍奉還で、吉田を豊橋と改めた。明治2年9月に成立した伊那県足助庁作成の三河国全図に、豊川(とよがわ)と記載されている。 ※地名の変遷と共に、川の呼称が変化していることがわかる。 ※なお、古代から豊川(とよがわ)と呼ばれていたと主張する資料は、すべて明治以降のものであり、注意が必要である。(上記の史料から、律令制の大和朝廷は、飽海川。江戸幕府は、吉田川。と間違いなく呼称している。) == 地理 == 愛知県の南東部に位置している。[[渥美半島]]の付け根部分であり、豊橋平野の上に市域が広がっており、高い山はほとんどない(主な山は北東部の石巻山(358メートル)など)。南部は高師原、天伯原と呼ばれる台地となっている。市内を、[[豊川]]、[[梅田川]]などが流れ、北東部は低い山々(弓張山系)が存在し、[[静岡県]]との境界を形成している。市西部の豊川、梅田川河口は[[三河湾]]と、市南部沿岸は[[太平洋]]と接している。 太平洋岸は表浜海岸([[遠州灘]])と呼ばれ、ウミガメの産卵で知られる。三河湾と接する地域は大規模な埋め立て地があり、工業地の他、神野新田など穀倉地帯となっている 中心部を東海道が横断し、[[吉田宿]]、[[二川宿]]など古くから城下町、宿場町として栄えた。現代でも東海道沿いに中心部を[[国道1号]]、[[東海旅客鉄道|JR東海]]の[[東海道新幹線]]、[[東海道本線]]、[[名古屋鉄道]]の[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]が通っている。三河湾岸の[[三河港]]は、自動車や貨物などの輸出入の重要拠点となっている。 気候は比較的温暖であり、降雪も少ない。[[太平洋]]([[遠州灘]])に面しているため、風が強い傾向がある。 * [[川]]:[[豊川]] * [[海岸]]:[[遠州灘]] === 隣接している自治体 === *[[愛知県]] **[[豊川市]]、[[新城市]]、[[田原市]] **[[宝飯郡]][[小坂井町]] *[[静岡県]] **[[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]]、[[湖西市]] == 歴史 == === 原始時代から弥生時代まで === [[縄文時代]]の遺跡として嵩山(すせ)の蛇穴遺跡など数件が、[[弥生時代]]の遺跡として瓜郷遺跡がある。市域に流れる川の流域には4世紀から7世紀頃の古墳(円墳、前方後円墳)も多く発見されている。なお、豊橋市牛川町で1957年と1959年に約十万年前のものとされる人骨が発見され、[[日本列島の人類の歴史|牛川原人]](牛川人)として紹介されていたが、2001年に[[お茶の水女子大学]]の教授である松浦秀治がその骨をフッ素年代測定法で調査したところ、[[ナウマンゾウ]]のすねの骨という結果が出た。そのため人骨である可能性は低いとされる。 === 奈良時代から鎌倉時代まで === [[律令制]](国郡制)の下で、[[三河国]]の[[渥美郡]]、[[宝飯郡]]、[[八名郡]]に属したとされる。[[律令制]]の下で[[班田収授法|班田制]]が敷かれていたとされる遺跡が、嵩山や賀茂などで見つかっている。また、初期の[[東海道]]が設置され、飽海川(あくみがわ、現在の[[豊川]])河口には渡し場が置かれた。これは飽海川の渡しと呼ばれ、後に志香須賀(しかすが)の渡しとして『[[枕草子]]』などでも詩が詠まれており、よく知られている。飽海川はその後、吉田川に改称され、明治以降に豊川に改称された。「豊川」とは、現在の豊川市にあった古代集落・宝飯郡豊川郷を指す。 === 室町時代から安土桃山時代まで=== 現在の豊橋市域内の在地有力勢力は、八名郡石巻の[[西郷氏#三河西郷氏|西郷氏]](岡崎の三河守護代西郷氏と同族)のみ{{要出典}}。しかしながら、交通の要衝のこの地に目を付けた[[戸田全久]](宗光)が[[二連木城]](豊橋市仁連木町)を築城([[1493年]])、その後、西方の至近距離に、[[牛窪城]](豊川市)の[[牧野古白]](成時)が[[今橋城]](豊橋市今橋町)を築城した([[1505年]])。 また、この当時、東三河に[[今川氏]]の影響力が及んでおり、[[北条早雲]]を総大将とする今川軍が、三河国に侵攻したが、[[松平長親]]の前に敗北している。 やがて、西三河をまとめた[[松平清康]]が東三河に侵攻、吉田城に篭る[[牧野信成 (今橋城主)|牧野信成]]、宇利城に篭る[[熊谷氏#三河熊谷氏|熊谷氏]]が防戦したが、他の東三河の勢力も清康に降参し、ここに初めて、松平家による三河国統一が実現される。 しかしながら、[[守山崩れ]]によって松平清康が横死したため、三河国は大混乱に陥り、東から今川義元、西から織田信秀が侵攻し、三河国は近隣国の植民地化する。松平氏は、今川氏の傘下となる。 [[1560年]]([[永禄]]3年)[[桶狭間の戦い]]で[[今川義元]]が[[織田信長]]に討たれると、徳川家康は岡崎城に入城し、。[[今川氏真]]を見限って独立を宣言。1565年(永禄8年)3月に吉田城が開城し、所属の今川軍と主将[[小原鎮実]]は遠江国に撤退した。家康は、吉田城に、重臣の[[酒井忠次]]を入城させ、東三河の旗頭となした。そして、翌1566年(永禄9年)5月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの土豪なども家康の降伏の勧めに応じて、三河国は家康によりほぼ統一された。 [[1590年]]([[天正]]18年)、徳川家康が駿府から江戸に遷ると、[[池田輝政]]が吉田城主([[石 (単位)|15万2千石]])となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への[[吉田大橋]](現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。 === 江戸時代 === [[関ヶ原の合戦]]の後、[[江戸時代]]に入ると、[[三河吉田藩|吉田藩]]が設置され、3万石から8万石程度の[[譜代大名]]が治めた。吉田は城下町、湊町(吉田湊)、宿場町([[吉田宿]])として栄え、二川(豊橋市二川町、大岩町)も[[二川宿]]として栄えた。吉田大橋(豊橋)は東海道におけるその重要性から、江戸幕府直轄の橋として管理された。 [[1752年]]には、藩主[[松平信復|松平伊豆守信復]](のぶなお)により吉田城内に[[藩校]][[時習館 (三河吉田藩)|時習館]]が置かれた。 [[幕末]]になると、[[1867年]]旧7月27日、牟呂村(豊橋市牟呂町)で伊勢神宮のお札が降ったと言われる。江戸時代、最後の藩主は、[[大河内氏|大河内]][[長沢松平家]]の[[大河内信古|松平伊豆守信古]](のぶひさ)である。そのため、今の市役所の徽章が大河内長沢松平家の徽章になっている。 === 明治から第二次大戦まで === [[版籍奉還]]直後の[[1869年]]旧暦6月、吉田は'''豊橋'''と改名された。[[1871年]]8月、[[廃藩置県]]により豊橋県となり、11月には[[額田県]]、[[1872年]]に[[愛知県]]に統合された。[[大区小区制]]が施行され、豊橋は第十五大区として管理され、愛知県の豊橋支庁が置かれた。[[1878年]]制定の[[郡区町村編制法]]により[[郡]]や[[町村]]が置かれ渥美郡豊橋町となり、[[1889年]]に[[郡制]]及び[[町村制]]を施行し、[[1906年]]には[[豊岡村 (愛知県)|豊岡村]]と[[花田村 (愛知県)|花田村]]を合併し[[市制]]を施行した。[[1932年]]に、下地町、高師村、牟呂吉田村、下川村、石巻村多米を編入した。 [[1888年]]に東海道線が開通し[[豊橋駅]]が開業した。[[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]は[[1924年]]に高師~豊島間の開業後、[[1925年]]までに三河田原まで開業した。市電([[豊橋鉄道東田本線]])は[[1925年]]に開業した。[[1931年]]、豊橋初の百貨店として豊橋丸物(広小路通。[[1950年]]に駅前大通に移転、[[1973年]]に[[西武百貨店|西武]]との提携で豊橋西武となる)、豊橋市公会堂(八町通)が竣工した。 [[1871年]]、吉田城趾に[[鎮台|名古屋鎮台]]が置かれた後、[[1885年]]には[[大日本帝国陸軍]][[歩兵連隊|歩兵第十八連隊]]が置かれたほか、[[1908年]]から[[1925年]]までは高師原に帝国陸軍[[第15師団 (日本軍)|第15師団]]が置かれるなど軍都として繁栄した。また明治から[[昭和]]の初めまでは養蚕業、製糸業が非常に盛んであった。[[太平洋戦争]]の最中には、[[1944年]][[12月7日]]の[[東南海地震]]と、[[1945年]][[6月20日]]の[[B-29 (爆撃機)|B29]]、136機による空襲([[豊橋空襲]])によって、市街地の7割が焼失した。 === 戦後 === 終戦後、将来の発展を見越し市街地の大規模な区画整理が行われ、又食料対策として高師原、天伯原の開墾と神野新田等の自作農化が行われた。一方で、日本紡績(現・[[ユニチカ]])を始めとした工場誘致活動を積極的に行い、郊外に工場が建てられていった。農工業の発展で新たな水源が求められていた中、[[1968年]]には[[豊川用水]]が完成し農業・工業の発展に特に寄与した。 1970年代から30年にも渡って、全国の都市の中で農業粗生産額第一位を続けた。[[1959年]]に完成した豊橋港(現在は[[三河港]]の一角)は、三河港の中心として発展した。1980年代以降、市街地の郊外化が進んだ。1999年、[[中核市]]に指定された。 === 年表(明治維新以後) === *[[1869年]] [[版籍奉還]]直後、吉田から'''豊橋'''と改名。 *[[1878年]] [[郡区町村編制法]]施行、[[渥美郡]]'''豊橋町'''となる。 *[[1888年]] [[豊橋駅]]開業。 *[[1889年]] [[町村制]]施行。 *[[1895年]] 渥美郡豊橋町は渥美郡豊橋村を合併する。 *[[1899年]] [[豊橋総合動植物公園|動物園]]開園。 *[[1906年]] [[市制]]施行。 *[[1925年]] 市電([[豊橋鉄道東田本線]])開業。 *[[1932年]] [[宝飯郡]]下地町、渥美郡高師村、牟呂吉田村、[[八名郡]]下川村、石巻村多米を編入。 *[[1944年]] [[東南海地震]]発生。 *[[1945年]] [[豊橋空襲]]。 *[[1955年]] 3月1日 宝飯郡前芝村、渥美郡二川町、高豊村及び老津村ならびに八名郡石巻村を編入。 *1955年 4月1日 八名郡双和村のうち大字賀茂の区域と渥美郡杉山村のうち大字杉山の区域を編入。 *[[1959年]] [[豊橋港]]完成(現在は[[三河港]]の一角)。 *[[1968年]] [[豊川用水]]完成。 *[[1999年]] [[中核市]]移行。 *[[2006年]] 市制施行100周年。(2005年8月~2006年12月 「とよはし100祭」開催) === 名所・遺跡 === * [[吉田城 (三河国)|吉田城跡]](豊橋公園) * [[二連木城|二連木城跡]](大口公園) * [[大津城 (三河国)|大津城跡]](高縄城) * [[月ヶ谷城|月ヶ谷(わちがや)城跡]] * 瓜郷遺跡 * 前芝の燈明台 * [[二川宿|二川宿本陣資料館]] * 嵩山の蛇穴 * [[豊橋市美術博物館]] * 牛川の渡し * [[豊橋市公会堂]] * 豊橋ハリストス[[正教会]] * 吉田三ヶ寺 [[龍拈寺]]、[[神宮寺 (豊橋市)|神宮寺]]、[[悟真寺 (豊橋市)|悟真寺]] * [[臨済寺 (豊橋市)|臨済寺]]([[小笠原氏]]の[[菩提寺]]。[[茶道]][[宗偏流|宗徧流]]ゆかりの寺。) * [[全久院 (豊橋市)|全久院]]([[戦国武将]][[戸田全久]]の菩提寺) * [[普門寺 (豊橋市)|普門寺]] * [[岩屋観音]] * 赤岩寺 * 湊神明社;(明治2年の三河国全図;伊那県足助庁印では、神明社になっている。) * 吉田神社;(明治2年の三河国全図;伊那県足助庁印では、須佐男社になっている。) *[[安久美神戸神明社]](豊橋神明社) 東海道名所図会では、牛頭天王祠(放花炮 六月十五日祭式)と記載されている。 * 聖眼寺;(明治2年の三河国全図;伊那県足助庁印では、下地の正眼寺になっている。) (徳川家康の[[馬印]]→[[牛窪記#下地聖眼寺の金扇伝承|金扇の発祥伝説]]。[[松尾芭蕉]]の句碑も有る。) ただし、東海道名所図会には、下地の聖眼寺の名前および松尾芭蕉の句碑の記載はない。;知立神社の解説には、芭蕉句牌の記載あり。 == 行政 == === 歴代市長 === * 初代([[1908年]]~[[1912年]]) [[大口喜六]] * 2代([[1912年]]~[[1913年]]) 高橋小十郎 * 3代([[1913年]]~[[1914年]]) 柳原弁吾 * 4代([[1914年]]~[[1916年]]) 大口喜六 * 5、6代([[1917年]]~[[1923年]]) 細谷忠男 * 7代([[1924年]]~[[1925年]]) 吉川一太郎 * 8代([[1926年]]~[[1930年]]) 田部井勝蔵 * 9代([[1930年]]~[[1934年]]) 丸茂藤平 * 10代([[1934年]]~[[1938年]]) 神戸小三郎 * 11代([[1938年]]~[[1940年]]) 大口喜六 * 12代([[1941年]]~[[1945年]]) 近藤寿市郎 * 13代([[1945年]]~[[1946年]]) 水野保 * 14代([[1946年]]~[[1947年]]) 横田忍 * 15、16代([[1947年]]~[[1952年]]) 大竹藤知 * 17、18代([[1952年]]~[[1960年]]) 大野佐長 * 19~22代([[1960年]]~[[1975年]]) 河合陸郎 * 23、24代([[1975年]]~[[1983年]]) 青木茂 * 25~28代([[1983年]]~[[1996年]]) [[高橋アキラ]] * 29~31代([[1996年]]~) [[早川勝]] === 財政状況 === [[2000年]](資料で確認できる範囲)から[[2005年]]まで、普通交付税交付団体であった。「[[三位一体の改革]]」により交付税の削減が行われ、[[2006年]]度には交付税不交付団体になった。 == 政治 == === 市政 === 豊橋市役所 〒440-8501 豊橋市今橋町1番地 ==== 市議会 ==== 市議会議員の定数は40人。定例議会は3月、6月、9月、12月に開催される。 === 県政 === ==== 県政の豊橋市における拠点 ==== * 愛知県東三河総合庁舎 ** 〒440-8515 豊橋市八町通五丁目4番地 ** 通称、東三事務所(とうさんじむしょ) ==== 愛知県議会議員 ==== 豊橋市から選出される愛知県議会議員の定数は5人である。 ==== 警察 ==== 愛知県[[警察本部]]([[愛知県警察|愛知県警]])の管轄の[[警察署]]である。 * [[豊橋警察署]] 豊橋市八町通三丁目8番地 === 国政 === 小選挙区は[[愛知15区]]にあたる。 * 第44回衆議院議員選挙 小選挙区 愛知15区 : [[山本明彦]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])(2005年9月12日-) == 司法 == === 裁判所 === 3つの[[裁判所]]が同じ庁舎に存在する。所在地は豊橋市大国町110番地。地方裁判所と家庭裁判所の豊橋支部の管轄範囲は、豊橋市、[[豊川市]]、[[蒲郡市]]、[[新城市]]、[[田原市]]、[[宝飯郡]]、[[北設楽郡]]である。また簡易裁判所の管轄は豊橋市、豊川市、蒲郡市、宝飯郡である。 * [[名古屋地方裁判所]]豊橋支部 * [[名古屋家庭裁判所]]豊橋支部 * [[簡易裁判所|豊橋簡易裁判所]] === 検察庁 === [[検察庁]]はすべて豊橋市大国町111番地の「豊橋合同庁舎」の最上階である。 * [[名古屋地方検察庁]]豊橋支部 * [[区検察庁|豊橋区検察庁]] === 弁護士会 === 愛知県[[弁護士会]]東三河支部 (会館所在地、豊橋市大国町83番地) === 刑務所 === [[名古屋刑務所]]豊橋支所が今橋町に置かれている。 == 経済 == かつては、製糸・紡績業が盛んで、戦前の製糸生産量は全国一であった。 [[キャベツ]]や[[白菜]]などの[[野菜]]の生産が盛んであり、[[農業]]産出額は約500億円に上り、隣接する[[田原市]]に次いで県内第2位、全国でも5番目となる。([http://www.maff.go.jp/toukei/sokuhou/data/sansyutsugaku2005/sansyutsugaku-si2005.pdf 農林水産統計、平成17年]) ===三遠南信 === 豊橋市を初めとする[[東三河]]地方は、地理的に政令市の[[浜松市]]など遠州西部や、[[飯田市]]などの伊那地域(長野県南端部)との交流関係がある。三遠南信という地域圏を自称している。 === 在住外国人 === 近くの[[豊田市|豊田]]から[[浜松市|浜松]]にかけての自動車産業を中心に労働力の需要が高いため、[[ブラジル]]を初めとした南米系の[[外国人労働者]]が増え、[[2007年]][[5月1日]]現在の豊橋市における外国人登録者数は19,376人にのぼる。愛知県内では、名古屋市(約6万)に次いで外国人が多い。人口に占める外国人比率は、5%に達する。