エディ・ゲレロ

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エディ・ゲレロ(Eddie Guerrero、1967年10月9日2005年11月13日)はアメリカ合衆国プロレスラーテキサス州エル・パソ出身のメキシコ系アメリカ人。最終所属はWWE

人物[編集]

プロレスの名門一家ゲレロ家の一員として生まれる。父親のゴリー・ゲレロ、兄のチャボ・ゲレロ・シニアマンド・ゲレロヘクター・ゲレロ、甥のチャボ・ゲレロ・ジュニアもプロレスラーである。妻のヴィッキー・ゲレロはWWEと契約してGMとして活躍していた(2014年退団)。娘のシャウル・ゲレロはラクエル・ディアスのリングネームでWWEの下部団体NXTで活動していたが、退団している。

「Lie Cheat and Steal」(ズルして騙して、いただき)を合言葉に相手の意表をついた戦い方を得意としている。スペイン語を織り交ぜたり、スラングを駆使した軽妙なトークが特徴であった。

J SPORTSの和訳字幕では語尾に、「~だっての」「オイラ」等と訳されていた。


来歴[編集]

レスラーとして[編集]

1987年レスラーとしてのキャリアをスタートした。3人の兄たちとCMLLを主戦場とした。

1992年新日本プロレスに参戦を果たす。正統的な動きと空中技を織り交ぜた戦法で天才レスラーと評された。またこの時期にクリス・ベノワと出会っている。またこの時期2代目ブラック・タイガーとして活躍もしており、クリス・ベノワ、獣神サンダー・ライガーらと、新日本ジュニア黄金期を支えた。メキシコでは盟友アート・バーとタッグを結成。トップ・ヒールとして活躍した。

1995年5月ECWにデビュー。ECWではTV王座を2度獲得する活躍を残す。また、先にデビューしていたディーン・マレンコ、ベノワとの抗争でマニアたちからも熱狂的支持を得た。8月に3人揃ってWCWに移籍が決まった時は、多くのファンたちに" Please Don't go "と引きとめられるほどであった。間連子と戦ったラストマッチは名勝負と評された。

WCWでは、ウルティモ・ドラゴンレイ・ミステリオ・ジュニアクリス・ジェリコらとクルーザー級戦線を中心に活動した。当時の副社長エリック・ビショフとヘビー級優遇の経営方針の為トップグループに組み込まれなかった。WCW・USヘビー級王座を巡って、リック・フレアーダイヤモンド・ダラス・ペイジと争った。US王座陥落後は当時クルーザー級王者だったクリス・ジェリコと争った。王座を巡ってミステリオとマスクを賭けた戦いにまで発展した。nWoブームが下火になった時はラテン系レスラーのユニットLWOを結成したが、エディが起こした交通事故でストーリーは打ち切りとなった。WCWには2000年まで在籍したが、内部の腐敗や扱いに耐えきれずWWEに移籍した。

2000年にベノワ、マレンコ、ペリー・サターンとともに移籍、ラディカルズを結成。レッスルマニア2000に参戦を果たした。WWEにおける初タイトルはWWE・ヨーロピアン王座。タイトルを巡って、テスト、ペリー・サターンと抗争した。同王座に2度輝いた。また、団体No.2の王座であるWWE・インターコンチネンタル王座もこの時期に戴冠を果たした。

2001年に過度のアルコール使用障害を起こし、2001年に交通事故を起こした3日後に解雇された。解雇後は、ROHWWA、FMAやIWA南部等の小さい団体に上がり続けた。

2002年に入り、WWEと再契約、復帰を果たす。5月に同じフロッグ・スプラッシュを使うロブ・ヴァン・ダムと抗争する。この抗争で2度目のIC王座を獲得する。後にラダー・マッチで王座を奪われるがファンが乱入する珍事が起こった。

WWE・タッグチーム王座が新設されると甥のチャボとロス・ゲレロス結成。タッグ戦線に殴り込みをかける。カート・アングル&ベノワ、エッジ&レイ・ミステリオと同王座を賭けて激闘を繰り広げた。チャボがけがをして欠場した時タジリが代役として相棒になる。エディの定番のローライダー入場はこの時に行われた(ストーリー上タジリが観客の車を盗んで入場しようと提案したため)。また、新設されたWWE・ユナイテッドステイツ王座を獲得した。エディの会場人気は着実に上がっていった。

ビッグ・ショーに王座を取られ、チャボ・ゲレロに裏切られるなどの不運が続くが、ロイヤルランブルでチャボとの決着戦を勝利で締めた後、WWE王座挑戦権を賭けたバトルロイヤルでカート・アングルを破り優勝。ノー・ウェイ・アウト2004で当時王者であった、ブロック・レスナーと対決。下馬評を覆し、自身初の世界王座を戴冠した。史上初のメキシコ系&小柄なWWE王者が誕生した。

続くレッスルマニア20ではバトルロイヤル以来の因縁の相手であるカート・アングルと防衛戦を行った。結果はエディが防衛を果たした。また同大会でWWE・世界ヘビー級王座を獲得したクリス・ベノワとリング上で泣きながら抱き合った。その後は、JBLと同王座を巡って争うも、グレート・アメリカン・バッシュ2004で王座を落とす。

陥落後はカートとの抗争に戻る。WWE王座戦線にも参戦するが奪回できなかった。2005年レイ・ミステリオを裏切ってヒール・ターン。ミステリオの息子ドミニクの親権を巡って対決する。10月にベビーターン。バティスタと世界王座を賭けて戦いつつ、友情ストーリーを展開させた。


突然の死去[編集]

2005年11月13日、遠征先のミネアポリスのホテルで死去。38歳没。死因は動脈硬化性疾患。

翌14日に収録されたRAWスマックダウンでは予定を変更して追悼番組が行われた。両番組のスーパースターたちが集まり、ビンス・マクマホンの弔辞と共に、追悼の10カウントゴング後、彼の追悼ビデオが流れ、会場が割れんばかりのエディコールが流れた。

彼の死後、バックステージは穴が開いたようにさびしくなったが、決して同僚たちは彼を忘れたわけではない。親友のクリス・ベノワ、甥のチャボ・ゲレロ、相棒で親友のレイ・ミステリオは、試合中彼の技を使うと必ず会場でエディコールが湧きあがる。

2006年1月、地元テキサス州エルパソ市から市民栄誉賞を、同年2月にはWWEが、彼のこれまでの功績を讃え、WWE殿堂入りを果たした(プレゼンターはチャボ、ベノワ、ミステリオ)。

主な得意技[編集]

フロッグ・スプラッシュ

 エディの代表的フィニッシュ・ホールド。盟友アート・バーから受け継いだ必殺技。トップロープからの屈伸式ダイビング・ボディ・プレス。

ラソ・フロム・エルパソ

 変形レッグ・ロック、変形テキサスクローバーホールド等、その時によって型が違っていた。2002年の一時期のみフィニッシャーだったが2005年のヒールターン時に再び使用。