オペレーション・トモダチ

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避難所への着陸を試みるアメリカ海軍SH-60 シーホーク(2011年3月15日)
被災者を抱きしめる航空隊員(2011年3月15日)
救援物資を運ぶアメリカ海軍対潜ヘリコプター部隊に燃料を提供する陸上自衛隊(2011年3月14日)
被災者と協力して瓦礫を片付けるアメリカ水兵(2011年3月15日)
被災地へ転送するためトーテュガに積載される陸上自衛隊の車両(2011年3月16日)
原子力空母「ロナルド・レーガン」にて被災者のために物資を輸送している兵士
救援活動を行うヘリ搭乗員
フライトジャケットの肩には「トモダチ作戦」のシンボルワッペンが付いている

オペレーション・トモダチ(トモダチさくせん、英語Operation Tomodachi)は、2011年3月11日日本で発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)において、アメリカ合衆国軍が行った災害救助活動。

作戦名は日本語友達にちなんでいる。

4月5日までにはNBC兵器(核兵器生物兵器化学兵器)対策などを専門とする海兵隊の特殊部隊、CBIRFが到着。4月6日までに、トモダチ作戦は罹災者の捜索・救援の段階から、福島第一原子力発電所事故への対応や、復興支援の段階へ移行した。

東日本大震災を受けて米軍が展開中の被災地支援「TOMODACHI(トモダチ)作戦」を巡り、米政府は同作戦の予算が最大8000万ドル(約68億円)であることを日本政府側に伝えた。 

米軍が名誉に思う「トモダチ作戦」と、たった一人の「ありがとう作戦」[編集]

オペレーション・トモダチ
オペレーション・トモダチ

震災発生以来、日本の復興に尽力したアメリカ軍。「トモダチ作戦」という名付けられ、最大人員約2万人、艦船約20隻、航空機約160機を投入。物資を被災地に運び、自衛隊とともに三陸沖で行方不明者を捜索した。

原発事故に関しても、無人偵察機を飛ばして撮影した写真を日本側に提供するなど、数多くの分野で労を惜しまなかった。仙台空港の復旧にも力を発揮し、被災からわずか5日でメインの滑走路を使用可能にしたのである。

そんななか、その「トモダチ作戦」にお礼を言いたいと、とあるmixiユーザーがたった一人で感謝を伝えに行った。彼は自らの行動を「ありがとう作戦」と称し、4月1日に仙台空港へと足を運んだ。

彼は「拝啓 トモダチ作戦に参加されている合衆国軍全将兵の皆様」と切り出した手紙を携えて、空港へと向かった。尽力してくれた米軍ひとりひとりに感謝の気持ちを伝えたかったのだ。そしてその手紙には、彼らに最高の賛辞を与えるため「伊達男」という言葉の説明が添えられていた(伊達男とは、宮城の武将伊達政宗に由来する言葉で、粋な男を意味する。伊達男=米軍)。

そして、震災で荒地と化した町の本来の姿を映した写真が添えられていたのである。英語力が拙かった彼は、mixiで協力を募り、なんとか手紙を完成させたという。

会話に不安を抱いていた彼なのだが、さいわいにも応対してくれた大尉が日本語堪能な人物だったという。大尉にお礼を伝えると海兵たちが次々と集まり、「サン キュー、トモダチ!」、「アリガトウ!」と温かく迎えられた。そればかりか、大尉の計らいで現場で指揮を執っていたコゼニスキー大佐と会うことに。そして彼は、ブログでその時のようすをこう綴っている。

「改めて事情をお話し、大佐の「あなたが撮ったの?」、「ここはどこの写真?」、「ご家族や家は大丈夫だったかい?」といった質問を、大尉さんに通訳してもらいながらお話ししました」

感謝を伝えに来たはずの彼だったが、大佐からは次のような言葉が飛び出した。

「海兵隊にいて長いが、こんなに嬉しいことはなかったよ」

さらに所属部隊のロゴが入ったメダルをいただいたそうだ。彼にとってこのメダルは一生の宝物になり、メダルに刻まれた「Semper fidelis」(ラテン語で「常に忠義・忠誠・忠実であれ」的意味)は彼の信条になったという。物語はこれで終わらない。

彼はこの後に浜辺に移動し、流木などを使って、「ARIGATO」の文字を書いたのだ。

「いびつだし、下手くそだからわかってくれるかはわからないけど、まあ、いい自己満足にはなったよ(笑)」と、発見される見込みが薄いのを承知で、砂浜に感謝の文字を書いたのだ。

とことが4月8日のこと、この文字が「トモダチ作戦」指揮官、ロバート・トス空軍大佐に発見された。そのときの様子が米軍横田基地のブログで紹介されている。4月3日の出来事として、大佐自身の言葉でこう伝えているのだ。

"ありがとう"などもったいない。米軍にとって仙台空港の運用再開を支援出来たことは光栄です[編集]

COMMENTARY - "Thank You" is not necessary; U.S. forces honored to help reopenSendai
Posted 4/8/2011 Printable Fact Sheet

4月3日、仙台空港の27番滑走路から800メートルほど離れた砂浜で、松の大木を並べて描かれたARIGATO(ありがとう)のメッセージが見られた。同空港は3月11日の地震と津波により壊滅的被害を受けたが、嘉手納基地から派遣された第353特殊作戦群の支援を受け、3月16日に運用が再開され、人道支援活動の拠点となった。

"ありがとう"などもったいない。米軍にとって仙台空港の運用再開を支援出来たことは光栄です。
統合支援部隊 統合特殊作戦隊司令官 ロバート P. トス 米空軍大佐 2011年4月6日 - 横田基地

2011年3月11日のマグニチュード9.0の地震とそれに続く33フィート(約10m)の津波によって残された惨状は言葉では言い表せない。日本の本州東沿岸300マイル(約 480km)以上が破壊された。震災当初目にした中で最も悲惨な状況だったのは、仙台空港そして隣接する名取市と仙台市だった。津波が押し寄せた仙台空港と近隣の町のビデオは衝撃的だったが、3月16日に初めて仙台空港に到着してこれらの地域を目の当た りにした衝撃は、映像をはるかに超えていた。

何千もの潰れた車両、折れ曲がった飛行機、根こそぎにされた木々、崩壊した家々、水、砂、魚貝などが散乱し、機能が停止した空港のイメージは、フィルムに、そして我々の記憶にも記録された。しかしそれと対象的なのが今日の仙台空港の映像であり、それは希望と復興のそれである。

当初から私達の展望は、日本側と調整しながら人道支援物資を災害地域の中心まで直接配送可能にする為に、仙台空港再開を促進することであった。3月16日、最初の固定翼機が仙台空港の主滑走路に着陸したことによりその展望を達成した。

その4日後MC-130第一便が着陸し、日本人とアメリカ人で編成されるチームは全滑走路を整備してC-17の着陸を可能にした。我々は共同して拠点を築き、災害の中心地にむけての支援が流れ始めた。後に仙台空港の再開が希望の象徴として宮城県の人々に勇気を与えることになろうとは、当初は予想だにしなかった。我々の到着前、日本国土交通省航空局と仙台空港機関は仙台空港再開は不可能だろうと考えていた。

仙台空港を津波以前の状態に復興するには、日本政府、自衛隊、合衆国空軍、海兵隊、陸軍、海軍および政府機関どうしの全面的な協力が必要であった。二国間協議が 設立された。委員会が当初練った計画では、当面は日本人従業員が復旧作業を行っている間、特殊部隊の兵士が支援物資の配送を可能にするべく、全ての飛行場運用に対処するというものであった。陸軍と海兵隊の部隊が3月20日に到着した際、直ちにこの流れに加わった。更なる支援を得て、両国間の調整委員会は計画に沿って、全ての空港運営を日本側の管理に戻す計画を、練り上げた。   4月1日に米国空軍戦闘部隊が行なっていた管制塔業務を仙台空港の管制官達に受け渡したのが、大きな節目だった。その日私が仙台空港に着陸する際、管制塔から日本人管制官の堂々とした声で着陸許可がおりるのを、胸が高鳴る思いで聞いた。

この日まで21日間という短い期間、米国空軍戦闘部隊の管制官は、オペレーション・トモダチに参加する米国空軍、海兵隊、海軍およびオーストラリア空軍等の250機以上の軍用機に着陸許可を与えた。これらの航空機は、これまでに231万ポンドの支援物資および現地で使用する重機・車両用の軽油およびガソリンを1万5000ガロン輸送した。

米軍が24時間態勢で空港運用を行ないながら物資を配送している間、空港の日本人は重機等を駆使して懸命に空港の整備と修理を行なった。

4月3日に最後の着陸を行なった時、これがほんの19日前には壊滅的な状態だった空港かと、我が目を疑った。

それよりもさらに驚いたのは、滑走路に向かって最終アプローチをかけた時だった。滑走路27番に向けて800メートルほど離れた砂浜の上空を飛行していた時、ふと下を見るとそこに日本語の"ARIGATO"の文字があるのに気がついた。津波でなぎ倒された松の木を20~30本使ってかたどったらしい。

我々の支援など日本の人々の労力に比べたら、何でもない。それどころか、我々が去った後も彼らの戦いは続くのだ。これまでも彼らは、自らが生き残るための戦いと 行方不明者の捜索を行なう中、復興作業に懸命に取り組んできた。

陸上自衛隊東北方面隊を指揮する君塚栄治陸将は、4月5日に仙台空港を訪れて米軍から空港責任者に管制業務が引き継がれる場に立ち会った。仙台空港が再開した翌4月6日、空港は3月11日の朝当時、すなわち日本人により運営される元の姿に戻ったのである。

仙台空港においてオペレーション・トモダチに携わった米軍は、すべて本州と沖縄の駐留部隊である。支援活動に派遣された全米軍人に代わって言いたい事は、我々を迎え入れてくれた友人であり隣人の日本の人々を支援できたのは我々にとって名誉だということだ。

第353特殊作戦群、米国海兵隊富士機動隊、海兵隊第35兵站連隊および陸軍第35兵站連隊の全隊員、君たちの仙台空港復興に向けた懸命の作業に、また日本の人々に復興への勇気を与えてくれたことに感謝する。

聖アウグスティヌス曰く、「我々は賞賛には値しません。我々は我々の義務をなすのです」

日本の皆さん、ARIGATOにはおよびません。

作戦司令部[編集]

本作戦では主要な在日米軍基地の多くが救助活動に活用されている。

アメリカ軍による統合作戦[編集]

今回の作戦では、アメリカ海軍・海兵隊・空軍それぞれが連携し統合軍の形態を取って活動している。作戦には18,000人を超える将兵が参加している。

アメリカ海軍[編集]

アメリカ海軍は10隻の艦艇を現地海域に派遣している。

米韓合同演習のため西太平洋を航行中であった「CVN-76 ロナルド・レーガン空母打撃群は本州東海岸域に展開する。空母打撃群は自己の艦載ヘリコプターのみならず、自衛隊のヘリコプターの為の洋上給油拠点として運用される。ロナルド・レーガンの将兵からは毛布やセーターなど1,000着以上の寄付が行われている。4月4日、本艦は洋上での拠点としての任を終え、「トモダチ作戦」への参加を終了。通常の任務に復帰した。

厚木海軍飛行場を基地にしている海軍航空隊のヘリコプターは、津波発生直後から捜索救難活動に投入され、その後は食料などの救援物資を運んでいる。

駆逐艦「DDG-85 マッキャンベル」と「DDG-54 カーティス・ウィルバー」の艦載ヘリコプターは地震発生後、房総半島において捜索救難活動に投入されている。

揚陸指揮艦「LCC-19 ブルー・リッジ」は地震発生後、寄港先のシンガポールにて急遽予定を変更、救援物資を積載して日本へ向けて出航している。

揚陸艦「LSD-46 トーテュガ」は北海道から陸上自衛隊の車両90台、人員500名を乗せて本州へ向けて輸送する。

アメリカ海兵隊[編集]

沖縄駐留アメリカ海兵隊は震災で損害を受けることはなかった。施設が無傷であったキャンプ・バトラーEnglish版(海兵隊バトラー駐屯地)の第3海兵遠征軍は海兵隊の救助のため即応動員を許可した。第31海兵隊遠征隊宮城県気仙沼市の船舶が流され孤立している離島の大島に救援物資、工事用車両、電気工事作業員を揚陸艇で揚陸した。

普天間飛行場を基地にしているヘリコプターは厚木海軍飛行場に要員を派遣し運用システムを確立している。

アメリカ空軍[編集]

アメリカ空軍は3月14日に嘉手納基地からKC-135空中給油機が交代要員と50人のエンジニアと共に三沢基地に到着させている。揚陸艦「LHD-2 エセックス」と「LSD-42 ジャーマンタウン」は第31海兵隊遠征隊を乗艦させて日本海から日本の東海岸へ向けて機動する。

他にもルイス=マコード統合基地English版から2機のC-17大型輸送機が救助隊と器材を輸送している。第265海兵隊中型ヘリコプター飛行隊からはCH-46輸送ヘリコプター8機が、KC-130給油機2機と共に救助隊と器材の輸送を実施している。

アメリカ陸軍[編集]

在日米陸軍が保有するUH-60汎用ヘリコプターの内、数機が救助活動に投入される。3月14日には米本土の第1軍団から救助部隊が到着し、補給のための前進後方支援拠点を構成する。

省庁間連携[編集]

拠点となっている横田基地には、アメリカ海外災害援助局からカリフォルニア州第2都市捜索救出任務部隊とバージニア州第1都市捜索救出任務部隊が派遣される。2個都市捜索救出隊はイギリスから派遣される約60名から成る捜索犬チームと合流する予定。3月16日にオーストラリア空軍のC-17大型輸送機が嘉手納空軍基地に到着する。アメリカ空軍要員はオーストラリア空軍と陸上自衛隊第15旅団を援助し、豪州空軍輸送機は物資と陸上自衛隊要員を積載して日本本土へ向けて機動する。

放射線被曝[編集]

第7艦隊スポークスマンによると、監視装置の測定により展開中の米軍艦艇が放射線に暴露していることが明らかとなる。別機材による測定でも乗員17人が放射線被曝したことを明らかにする。ジェフ・デービス海軍中佐は露出は少なく乗員は洗浄後に検査をして陰性反応を示したと明らかにする。これは日常生活上、1ヶ月間に被曝する放射線量未満とされ、今後は念のため露出部位を最小に抑えて救援活動を実施するとした。

アメリカ軍家族による支援活動[編集]

アメリカ軍将兵の家族には自主退避許可が出ているが、日本にとどまり自主的な支援活動を行う者もいる。厚木基地では震災日から将兵の家族たちによって被災者への募金活動が行われている。三沢基地に勤務する将兵の家族からは、食料の不足している震災孤児数十人を受け入れた孤児院での食料配給活動が行われるとともに、衣類などの提供が行われている。

関連項目[編集]

テンプレート:東日本大震災