日本自由党 (1953-1954)

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分党派自由党[編集]

1953年(昭和28年)2月28日、衆議院本会議における吉田首相のバカヤロー発言後、首相懲罰動議採決で欠席した自由党鳩山派は、その後の内閣不信任案の採決前に可決させんがために、自由党を離党して結成。正式名は分党派自由党だが、鳩山が党首であるので一般に鳩山自由党と呼ばれる。正式名は日本自由党だが、マスコミが自由党とまぎわらしいため、分党派自由党、鳩山自由党と呼んだという説もある[1]

総選挙後に鳩山を含む大半は吉田自由党に復党したが、三木武吉河野一郎ら8名は復党せずに日本自由党を結成。

歴代執行部役員表[編集]

総裁 幹事長 党務委員長 政策委員長 選挙委員長
鳩山一郎 三木武吉 石橋湛山 広川弘禅
 〃 河野一郎  〃  〃

(参考文献:戸川猪佐武『小説三木武吉』1983年1月角川書店ISBN 4-048-72351-0水木楊『誠心誠意嘘をつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』2005年7月日本経済新聞社ISBN 4-532-16524-5

歴代総裁[編集]

自由党総裁

総裁 在任期間
1 鳩山一郎 1953年(昭和28年)3月18日 - 1953年(昭和28年)12月10日

(参考文献:村川一郎石上泰州『日本の政党』1995年3月丸善株式会社・丸善ライブラリー、ISBN 4-621-05153-9

日本自由党 (1953-1954)[編集]

日本自由党(にっぽんじゆうとう)は、1953年11月に分党派自由党から自由党に戻らなかった反吉田茂派の政治家が中心となって結成。

結成にあたっては三木武吉河野一郎山村新治郎池田正之輔松田竹千代中村梅吉安藤覚松永東が参加し、彼らは後に当時流行した映画七人の侍』(1954年春公開)をもじって八人の侍と呼ばれるようになる。その後も三木は吉田打倒を画策し自由党内の非主流派や改進党を糾合、翌1954年11月の日本民主党結成を見た。

歴代執行部役員表[編集]

総裁 幹事長 政務調査会長
三木武吉 河野一郎 中村梅吉

(参考文献:村川一郎石上泰州『日本の政党』1995年3月丸善株式会社・丸善ライブラリー、ISBN 4-621-05153-9

党勢の推移[編集]

衆議院[編集]

選挙当選/候補者定数備考
第26回総選挙35/102466 

参議院[編集]

選挙 当選/候補者非改選定数備考
第3回通常選挙●0/92250 

(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店岩波新書ISBN 4-00-430904-2

  • 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。

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  1. 水木楊『誠心誠意嘘をつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』2005年7月日本経済新聞社ISBN 4-532-16524-5

関連項目[編集]