和田豊

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和田 豊
和田 豊

和田 豊(わだ ゆたか、1962年9月2日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球監督。現役時代は阪神タイガースに所属し引退後は同チームのコーチを務めた。2012年シーズンよりタイガース監督に就任。

来歴[編集]

現役時代[編集]

松戸市立常盤平第一小学校松戸市立常盤平中学校から進んだ我孫子高校では、1年生で夏の甲子園に出場。

日本大学へ進学。東都大学1部リーグ通算78試合出場、288打数94安打打率.326、4本塁打、22打点ベストナイン2回。1983年春季のリーグでは首位打者になる。

1984年のロサンゼルスオリンピック野球日本代表として出場し、金メダルを獲得した。この年、阪神タイガースにドラフト3位で指名され入団。同年限りで引退した藤田平の後継者として期待され、藤田がつけていた背番号6を与えられた。

1年目の1985年、山脇光治と入れ替わる形で一軍に昇格(プロ初打席は四球だった)。新人選手ながらチーム初の日本一達成に控え内野手として貢献した。

1988年に就任した村山実監督より、大野久中野佐資と共に“少年隊”と命名され、同年に遊撃手としてレギュラーに抜擢されると、当時の日本記録を更新する56犠打を記録した。

翌1989年にも最多犠打となり、小技と堅実な守備でチームの中心選手となった。1988年にはスイッチヒッターにも挑戦した。

1990年には、自身初の打率三割を記録。本塁打8本は生涯最高の本数となった。長打率も生涯唯一4割を超えた。また同年の三振わずか59個が生涯ワーストの数字ともなった。

当初、打順は2番が多かったが、勝負強く三振の少ない打撃を買われて徐々に1番に定着し、暗黒時代の阪神をチームリーダーとして引っ張った。守備にも定評があり、1992年から3年連続で二塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。特に1992年は入団した年以来となるチームの優勝争いに貢献し、ベストナインにも選ばれた。芸術的な流し打ちや、追い込まれてからの勝負強さを武器に「安打製造機」として活躍し、通算1739安打を記録した。特に通算安打は、1993年にリーグ最多安打(当時はタイトルではない)となるなど、好守の内野手として活躍した。一方、極端に長打の少ない打者として知られ、1991年から1993年まで、規定打席に達していながら3年連続で0本塁打であった。1994年5月25日の巨人8回戦(甲子園)で打った2点本塁打は1930打席ぶりに出たものであって、走者を置いての本塁打はプロ入り3673打席目で初めてだった。

1994年に自己最高の成績を残し首位打者争いにも加わり、シーズン終了後の契約更改で阪神の生え抜き選手としては初の1億円プレーヤーとなる。この年の打順は前半戦は1番、後半戦はロブ・ディアーの不振に伴い3番を任されていた。この年のシーズン147本単打は、それまでの1988年の新井宏昌の144本を上回ったが、同年オリックスのイチローが151本を記録した為、このシーズン終了時点はセ・リーグ新記録と日本プロ野球歴代2位となった。

翌1995年は前年最終戦で自打球を足に当て骨折した影響から不振に陥り、関川浩一に1番を譲り2番を打つことが多くなった。

1996年は開幕スタメンを7番でスタートするが、5月下旬には1番に戻り成績も復調。11月に行われた日米野球にも出場。特に甲子園での試合では野茂英雄から三塁打を放ち5打点を挙げる活躍をみせた。

1997年はシーズン当初から好調を維持し、開幕からの連続安打としては日本記録となる24試合連続安打を放つ。しかし7月の対中日戦で死球を受け左手人差し指と中指を骨折、9月まで2か月間戦線を離脱する。

1998年には結膜炎にかかり、一時期眼鏡をかけて出場していた。

1999年に野村克也が阪神の監督に就任した際「監督が変わっても僕達は変わらない」と発言したため、初めてのミーティングの際に野村から「変わらないからチームが低迷したままなんだ」と叱責を受けた。

2001年に選手兼任で打撃コーチに就任。しかし選手との両立は困難であり、1988年以来続けていた開幕スタメンも途切れる。開幕から7月まで20打席以上ヒットの出ない日々が続き、初ヒットが出たのは7月11日であった。選手としては二度の二軍落ちを経験する一方、コーチとして一軍に帯同したため練習時間の確保ができず、特にビジターの球場ではそれが顕著であり感覚がずれないよう一般のバッティングセンターに通うこともあった。9月21日に現役引退を表明し、10月1日が引退試合となる。この年唯一のスタメンとなった試合で、右前ヒットと四球で二度出塁、二度ともホームを踏み最後まで自分の役割を果たす。この日が最後の指揮となった巨人の長嶋茂雄監督(同じ千葉県出身でもある)への花束贈呈式の後、和田の引退セレモニーが行われた。スピーチの際、球団関係者・同僚への感謝の言葉に続き「…日本一の球場で、常によいコンディションで試合をさせていただいた、阪神園芸甲子園のグラウンドや蔦の整備を担当する阪神電鉄の子会社)の皆さん。そして、いつも影で支えてくれた裏方の皆さん、マスコミ関係の皆さん…」という裏方への感謝の言葉が語られ、球場は一際大きな歓声に包まれていた。

引退後[編集]

2002年からは背番号を86に変更してコーチ専任となり、優れた観察眼と指導で2003年のリーグ優勝を後押しした。2004年は二軍総合コーチを務めるが、翌2005年には一軍打撃コーチに復帰、チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たす。コーチとして緻密なデータ解析をすることで選手の信頼を得た。

2007年から同級生である広澤克実の打撃コーチ就任に伴い、内野守備走塁コーチに配置転換された。2007年は一塁、2008年は三塁のベースコーチを担当した。

2009年からは再び一軍打撃コーチに配置転換。

2011年10月28日、第32代阪神タイガース監督に就任し、2012年より阪神タイガースの監督である。他球団での所属歴の無い生え抜き監督としては1998年限りで退任した吉田義男以来14年ぶりとなる。

就任会見では「今の戦力に少しのスパイスを加えれば優勝争いできる」と発言し、4月始めに出版した著書『猛虎復活』の中でもスパイスと呼ぶチーム復活への具体的手法を提示したものの、監督就任1年目の2012年は、主力選手の不振や選手層の薄さ等でチームが低迷し、また対巨人戦で大きく負け越したことも響き、チームは5位に終わる。

2013年は、シーズン前にメジャーから獲得した西岡剛福留孝介、ドラフトで一位指名した藤浪晋太郎らを加えた戦力が噛み合い、巨人に次いで2位に付ける。交流戦では一時は単独首位に立つもすぐに巨人に奪い返され、その後は首位に立つことはなく、8月27日からの巨人との直接対決3連戦で3連敗したことも響き、9月22日のヤクルト戦(甲子園)で敗れたことにより巨人の優勝を許してしまう。結果として3年ぶりのシーズン勝ち越しとクライマックスシリーズ進出を決定させたが、最終的には巨人に12.5差の2位に終わる。広島とのクライマックスシリーズファーストステージ(甲子園)では2連敗を喫し敗退した。

人物[編集]

家族は、夫人と1男2女(第一子が長女で、第二子・第三子の長男と次女が双子)。長男・優輝は、報徳学園高等学校硬式野球部の内野手として、2009年第81回選抜高等学校野球大会に出場した。卒業後に進学した関西大学でも、硬式野球部でプレーを続行。3年生になった2012年からは、一塁手として、関西学生野球リーグの公式戦などにレギュラーで出場している。

夫人は元スチュワーデスで、主に国際線に乗務していた。よく「機内で知り合ったのですか?」と聞かれるというが、二人は我孫子高校時代の同級生で、和田の方から声をかけてきたという。また、我孫子高校では声優・音響監督の辻谷耕史、声優のこおろぎさとみと同級生で、辻谷とは3年生の時にクラスメートであった。

1996年はチーム事情から三塁を守ることが多かった。その時はチーム事情を慮りつつも「自分のポジションじゃない」「二塁に戻ってやるぞ」という気持ちから三塁手用のグラブは用意せず人から借りていた。(尚、二塁は平尾博司星野修が併用で起用されていた)

2000年6月7日の巨人11回戦(東京ドーム)では、前年までチームメイトだったダレル・メイ投手と対戦。打席に入っていた和田がタイムを要求し打席を外したところ、この行為があからさまな遅延行為だと憤慨したメイに頭部へボールをぶつけられそうになった。幸い和田には当たらず野村監督の抗議もなかったため、試合はそのまま続行されたが、メイが故意に和田を狙って投げたことが試合後に分かり、メイは出場停止処分となった。なお、和田はこの打席で二塁打を打ち、乱闘を呼ぶことなく報復を果たした。メイに対しては、後日、和田の方から歩み寄り和解の握手をしたという。

現役時代のオフシーズンでは1日だけ思いっきり長打を狙うバッティング練習をする日を設けていた。これは「自分みたいな非力な打者は長打を狙っていけない」と自分を戒めていた和田が、この日に思いっきり長打を連発することでシーズン中の「長打を打ちたい」という欲を解消するためのものである。

コーチに就任してから阪神公式サイトおいて連載した日記「虎の意地」は、書籍化もされた。この日記は現役時代や外見の地味なイメージからは考えられない従来の通り一辺なブログとは一線を画した内容で話題を呼んだ。現役時代から膨大な資料や選手の特徴を記述した「和田ノート」と呼ばれるメモをつけており、コーチになってからも作戦面で生かしていた。

ものまねタレント・星奈々との不倫[編集]

和田 豊
和田 豊

阪神和田豊監督(50)が2013年7月3日、巨人との首位攻防戦最中の女性問題報道に謝罪した。4日発売の「週刊新潮」7月11日号で、1軍打撃コーチだった2005年から約2年間、タレント星奈々(40)と不倫関係だったことが掲載された。

和田監督は球団を通じて「シーズンが大事な時期に、一個人のことで一部週刊誌をにぎわせてしまい、関係者やファンの皆様には大変申し訳なく思っております」とのコメントを出した。同監督は高校の同級生だった夫人と1男2女がいる。

同誌によれば、歌手松田聖子の大ファンである同監督と松田聖子のモノマネを得意にしている星は2003年に知り合った。星は2005年のハワイ優勝旅行にも同行したことなどを告白。関係解消後も連絡を取り合っていたという。

阪神の四藤慶一郎球団専務は「プライベートのことなので、球団としてコメントすることはありません」と不問とする姿勢を強調した上で「関係者には自覚を持った行動をすることを、今後も徹底させていきます」と述べた。

練習終了後の豪雨で巨人11回戦は中止となったが、同監督は神妙な顔つきでグラウンド入りした。就任1年目の昨季は5位。今季はここまで新戦力の活躍もあり、首位巨人と3.5ゲーム差の2位につけている。球団首脳は手腕を高く評価し、来季続投が基本線となっている。巨人との首位争いにファンが注目する中で、思わぬスキャンダルに見舞われた。

記事には和田の熱いキスメールも掲載されており、その内容があまりに痛々しいものであったことから、スパイスをもじって「スパイチュ」という造語が誕生。このことから、阪神が「返信タイガーチュ」とよばれる事がある。

また、その不倫相手の名前から、阪神関連の話題の中で登場する数字の7を奈々と意図的に誤記するネタも生まれた。例としては「背番号奈々」「魔の奈々回」「奈々ゲーム差」など。

同年8月20日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)では、3回表に奈々点とって7-0と大量にリードしておきながら、4回裏に逆転され、一度は追いついたものの最後はサヨナラ負けを喫した為、「星(ベイスターズ)に奈々点差をひっくり返された」とネタにされた。なお、阪神が奈々点差を逆転され敗れたのは2006年8月18日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)以来奈々年ぶりのことであった。

晒されたメール

愛しい奈々!おはよー!チュッ(笑)
もう俺と奈々は既に運命共同体となっておりますので、どうか最後までお付き合いください(笑)

明日の晩は抱っこして、腕枕して寝てあげるからね

奈々!俺にもチュッは?(笑)

まだお風呂かな?一緒に入ろう! 今度ね!って…もう俺と奈々は、何でもありでしょ?(笑)
また湯船に浸かって、ちょっと恥ずかしそうな顔のかわいい奈々を見せてね! チュッ

和田豊「それではミーティング始めるぞ」「クスクス」[編集]

和田豊「最近チームは打線が湿っていて先発投手を擁護できていない!」

「クスクス」

和田豊「だから今日は積極的に初球から…」

西岡「イトシノ ナナーwwwww」
「ダメッスヨwwwwwニシオカサンwwwwwwwww」

和田豊「捕手も最近盗塁を狙われるシーンが多いので・・・」

「プークスクスwwww」
「マジメニ ハナシテルノニ チュッッテwwwwwwww」

和田豊「・・・巨人とのゲーム差も開いてきたからここが正念場だぞ!」

「クスクス」
西岡「ウンメイキョウドウターイwwwwwwwwwwww」
「ダメッスヨ ニシオカサンwwwwwwwww」

和田豊「ミーティング終わります・・・」

・・・・・・・後日のミーティング・・・・・・・・

和田「私の問題で騒がせてすまなかった、心機一転巨人を追撃しよう!」

シーン

西岡「…チュッ」

檜山「プッ」

新井「ブッフォ!」

鳥谷「「(ニヤッ)」

俊介「wwwwwwwwwwww」

一同「ブーーーーーーーーハッッハッッハッッハハ!」

中西「やめろやwwwwwwツヨシwwwwww」

和田「」

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 阪神 39 54 49 10 14 0 0 0 14 4 0 0 0 0 5 0 0 3 3 .286 .352 .286 .638
1986 8 5 3 0 1 1 0 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .667 1.000
1987 54 59 53 8 13 1 0 1 17 2 3 2 3 0 3 0 0 9 2 .245 .286 .321 .606
1988 127 493 398 57 111 12 1 1 128 20 17 3 56 1 37 0 1 51 5 .279 .341 .322 .663
1989 129 563 476 61 141 20 4 1 172 25 18 8 40 1 45 0 1 39 7 .296 .358 .361 .719
1990 126 569 496 72 151 16 4 8 199 36 17 9 12 3 54 6 4 59 8 .304 .375 .401 .776
1991 129 565 494 50 147 13 3 0 166 34 9 13 10 2 58 4 1 48 14 .298 .371 .336 .707
1992 132 606 550 65 153 23 8 0 192 23 1 6 15 0 40 3 1 48 9 .278 .328 .349 .677
1993 127 579 511 63 161 22 2 0 187 36 4 1 18 2 47 2 1 35 15 .315 .373 .366 .738
1994 130 601 519 76 165 13 3 2 190 43 8 7 11 3 65 3 3 40 6 .318 .395 .366 .761
1995 130 569 509 49 136 22 4 1 169 35 4 4 11 1 45 0 3 39 14 .267 .330 .332 .662
1996 130 573 520 66 155 22 3 5 198 44 2 7 6 4 43 2 0 48 10 .298 .349 .381 .730
1997 96 423 390 51 117 17 5 2 150 26 3 0 1 3 25 1 4 44 4 .300 .346 .385 .731
1998 130 495 438 39 119 15 1 4 148 32 1 4 10 1 45 0 1 39 10 .272 .340 .338 .678
1999 101 379 334 30 101 13 3 3 129 23 4 4 11 0 32 1 2 29 13 .302 .367 .386 .753
2000 88 228 194 19 49 8 1 1 62 20 3 2 6 0 26 4 2 16 3 .253 .347 .320 .666
2001 37 44 38 4 5 2 0 0 7 2 0 0 0 0 6 1 0 7 0 .132 .250 .184 .434
通算:17年 1713 6805 5972 720 1739 220 42 29 2130 407 94 70 212 21 576 27 24 554 123 .291 .355 .357 .711
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2012年 阪神 5位 144 55 75 14 .423 31.5 58 .236 2.65 50歳
2013年 2位 144 73 67 4 .521 12.5 82 .255 3.07 51歳
通算:2年 288 128 142 18 .474 Aクラス1回、Bクラス1回
ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2013年 阪神 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

1stステージ
広島東洋カープセ・リーグ3位) 0勝2敗=敗退

タイトル[編集]

  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1993年) ※1994年より表彰

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000本安打:1994年7月26日、対読売ジャイアンツ17回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に宮本和知から右前適時打 ※史上178人目
  • 1000試合出場:1994年10月4日、対横浜ベイスターズ26回戦(横浜スタジアム)、3番・二塁手で先発出場 ※史上323人目
  • 1500本安打:1998年5月23日、対横浜ベイスターズ7回戦(阪神甲子園球場)、4回裏にパット・マホームズから投手内野安打 ※史上74人目
  • 1500試合出場:1999年4月18日、対ヤクルトスワローズ3回戦(福岡ドーム)、2番・三塁手で先発出場 ※史上125人目
  • 200犠打:1999年6月1日、対横浜ベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に福盛和男から一塁前犠打 ※史上19人目
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:7回 (1989年、1992年 - 1996年、1999年)
  • オールスターゲーム通算打率.433(30打数13安打)
  • シーズン最多犠打日本記録(当時) 1988年・56犠打
  • 開幕連続試合安打日本記録 1997年・24試合

背番号[編集]

  • 6 (1985年 - 2001年)
  • 86 (2002年 - )

関連情報[編集]

作品[編集]

  • 虎の意地(ザ・マサダ、1998年4月)
  • 虎の意地-和田コーチの野球日記(集英社、2003年10月)
  • 虎の挑戦-和田コーチの野球日記「虎の意地」(宝島社、2004年2月)
  • 猛虎復活(宝島社、2012年4月)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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