平公雅

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平 公雅(たいら の きんまさ、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。平公正、平公雄、平忠望も同一人物とされる。平良兼の長子で、弟に公連公元らがあり、子に致秋致成致頼らがある。安房守、武蔵守、右衛門少尉、従四位下。

概説[編集]

父良兼らが従兄弟の、平将門と度々争い、勝利して将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、弟の公連と共にこれを将門の許に逃がしたとされる[1]

承平7年(937年)に将門の訴状により朝廷から下された追捕の官符で父らと共に対象になっている為、この頃は父と共に将門と争っていたと見られるが、天慶2年(939年)6月に父が病死すると、将門と対立する平貞盛らとは距離を置いて中立的立場になったといわれている。12月に将門が「新皇」を自称し叛乱をおこすと、翌天慶3年(940年)1月14日、将門の牽制の為に任命された8人(坂東8ヶ国)の東国の一人となり、将門の乱の鎮圧後に安房となった[2]

天慶5年(942年藤原秀郷の後任として武蔵守となり、将門の乱によって荒廃していた武蔵国・金龍山浅草寺を再建したことで知られる。

また、天慶八年(945年)の3月18日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青、赤、黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし。」 と告げたので、教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草のり』だ」と評判になったという伝説も知られている。

脚注[編集]

  1. 『将門記』には良兼と将門の関係を「舅甥ノ中既ニ相違フ」(舅甥ノ中=舅と聟)とあり、また将門の妻子が良兼に捕らえられた際「妾ガ舎弟等謀ヲ成シテ」(つまり、舎弟=将門の妻の弟)とあり、将門の妻は良兼の娘であったとする説がある。
  2. 時期の詳細は不明で天慶3年~5年の間に任ぜられたとみられる。

関連項目[編集]