征夷大将軍

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征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷令外官の一つ。蝦夷征討する偉大な将軍

概要[編集]

「征夷」とは、東夷を征討する意味。征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷西戎南蛮北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めた為とされている。

「東夷」対する将軍としては、和銅2年(709年3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初であり[注 1]、「征夷将軍」(通常、征夷大将軍と同一とされる)の初見は、養老4年(720年9月29日に任命された多治比縣守である[注 2]。「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年12月7日に辞見した紀古佐美である[注 3][注 4]

延暦10年(790年7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使[注 5]に任命された。延暦12年(792年2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。『日本紀略』には延暦13年(794年1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うたとあり、これが「征夷大将軍」の初見とされ、由来としては天皇に任命される軍事指揮官である。

建久3年(1192年源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開いて後、江戸時代末期まで約675年間にわたって征夷大将軍を長とする武家政権が続いたが、慶応3年(1867年徳川慶喜による大政奉還江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。

歴史[編集]

奈良・平安時代[編集]

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征夷大将軍坂上田村麻呂</br>『前賢故実』(菊池容斎・画)より

延暦10年(790年)「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、延暦13年(794年)1月1日に「征夷大将軍」として節刀を授けられた。大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、延暦15年(796年10月27日鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌延暦16年(797年11月5日に征夷大将軍に昇格した。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定した。その後陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年4月17日に征夷将軍[注 6]に任命され、同年 閏12月11日蝦夷征討の終了を奏上、鎮守将軍には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年11月17日には再度文室綿麻呂が征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。

また、天慶3年(940年)に藤原忠文が、元暦元年(1184年)に源義仲[注 7]が、征東(大)将軍に任じられているが蝦夷征討を目的としたものではない。

なお、征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍征夷軍監征夷軍曹、また征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)、征東軍監、征東軍曹などの役職が置かれた。

鎌倉時代[編集]

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鎌倉幕府を創設した源頼朝</br>(在職期間:建久3年 - 建久10年)
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室町幕府を創設した足利尊氏</br>(在職期間:延元3年 - 延文3年)
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江戸幕府を創設した德川家康</br>(在職期間:慶長8年 - 慶長10年)
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最後の将軍となった徳川慶喜</br>(在職期間:慶応2年 - 慶応3年)

源頼朝は当初、東国武士団の棟梁(=鎌倉殿)でしかなく、律令制下における地位を持たなかった。即ち、当初は平将門等と同じ地方叛乱の首領でしかなかったのである。その頼朝の政権構想には、先行モデルとして平氏政権源義仲奥州藤原氏地方政権の3パターンがあり、それらの比較検討から次第に鎌倉政権のイメージが練られたのではないかといわれている。

  • 平氏政権は、貴族家格秩序の中の既定のコースに従って官位昇進を遂げ、朝廷の内部に勢力を確立する事によって、国家権力を掌握する道を選んだ。これに対し頼朝は、朝廷から相対的に独立した「東国王権」の王である事から出発して、武士の自主的統治権を朝廷に認めさせる為に交渉を重ねていく事になる。
  • 中央・京都に進出した源義仲は、過去に存在した「征東大将軍」という官職に任官された。征東大将軍の地位は東方の勢力を成敗する使命を暗示する物で、その裏には義仲の頼朝に対抗する意図が推定される。
  • 当時の東北地方は奥州藤原氏が支配し、朝廷の支配が及んでいない地域だった。奥州藤原氏は「鎮守府将軍」の地位を獲得し、自らの居所を「柳之御所」「柳営」と称した。柳営とは幕府の別名である。鎮守府将軍は、陸奥国出羽国内で軍政という形での地方統治権が与えられており、辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の司令官という性格を持つが故に京都在住の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。これは頼朝政権の格好の雛形となったろう。

文治5年(1189年)、頼朝は、権大納言右近衛大将(右大将)に任官され、公卿身分となって自らの家政機関を政所として公認された。しかし近衛大将はその職務の性格上京都に在住しなければならず、東国での独立を志向するには不向きだった。そこで頼朝は権大納言・右大将を辞任し、公卿としての特権のみを手元に残した。「前右大将」という名目を鎌倉政権の歴代首長の地位としていく構想もありえなくはなかったと思われる。だが、右大将では形式上の官職こそ高いが、すでにライバルだった源義仲が征東大将軍だった事に比べると、中央近衛軍司令官という性格上、積極的に地方の争乱を武力で鎮圧する地位ではない。また奥州藤原氏の鎮守府将軍と比較すると「武士の自治」という重要な積極的要素が欠けていた。

そこで頼朝が注目したのが、「征夷大将軍」という官職であった。これは軍政(地方統治権)という意味では鎮守府将軍と同様である。かつ、坂東関八州の事)の兵を率いて奥羽の蝦夷(この場合は奥州藤原氏)を征伐するという目的からしても、鎮守府将軍より故実からして格上でもある格好の官職であった。

つまり、

  • 東国武士の棟梁として君臨する鎌倉殿という私的地位
  • 守護地頭を全国に置き、軍事警察権を行使する権限
  • 右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限

を、全て纏め上げて公的に担保するのが征夷大将軍職であった。

ただし、征夷大将軍職は奥州藤原氏を討つ為の奥州合戦においてこそ必要とされた官職であって、実際に任官した建久3年(1192年)においては、既に頼朝にとって必要性はなくなっていたという説もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執しておらず、2年後には辞官の意向を示している。また源頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官されており、征夷大将軍職を宣下されたのはその3年後である。更に比企能員の変に際しては総追撫使・総地頭の地位の継承が問題となっており、将軍職は対象とされていない。従って、この段階では将軍職は、武家の棟梁の絶対条件ではなく、さほど重視されていなかった事が伺える。一方、源実朝の家督継承に際してはまず将軍職が宣下されている。

だが近年、これらの通説を覆す新史料が発見された。『三槐荒涼抜書要』[注 8]所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に、頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかったのである。それによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷では「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討した結果、平宗盛の任官した「惣管」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥け、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥け、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官する事にしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、「征夷大将軍」を選んだのは朝廷であった事が明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった)[出 1]。頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛平氏良文流平氏・秀郷藤原氏頼義源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている[出 2][出 3]

また、源頼朝が征夷大将軍を望んだものの、後白河法皇に阻まれたとされる事情については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つ事が指摘された。この記事は源義経の使者が、頼朝が3月27日の除目で正四位下に叙された事を知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、後白河法皇が源義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与える事を検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、法皇から与えられる筈であった全ての官職を辞退して、叙位のみを受けた事が記されている。この事態を説明するには、後白河法皇が既に終わった合戦の戦功として頼朝に征夷大将軍と同義の征夷将軍を与えようとしたものの、頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わってから久しい当時において、後白河法皇・源頼朝が共に征夷将軍(=征夷大将軍)を名誉的な官と見なして、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職として認識してはいなかった可能性がある。更に寿永以後、頼朝が実際に征夷大将軍に補任される迄の間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できないとされる。その場合、鎌倉殿の持つ権限の根拠は特定の官職に依る物ではなく、寿永二年十月宣旨文治の勅許等、頼朝以来の代々の鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝以来3代の征夷大将軍補任の実態は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つ様になるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や皇族将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めた事により、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている[出 4]

その後の武家社会[編集]

鎌倉時代以降、源頼朝が「征夷大将軍」の位を得て幕府を開いて後は、幕府の政治力が徐々に高まっていった。しかし、鎌倉時代を通じては、朝廷も全国支配を行う政府として存続し続けた。一方、鎌倉幕府においては執権職を独占した北条氏が覇権を握り、征夷大将軍は名目上の武家の棟梁ではあるけれども、実際は北条氏の傀儡となった。室町幕府が成立すると、3代将軍足利義満の時期に、義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、「征夷大将軍」は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。この時期以降、朝廷は単なる形式だけの政府で、幕府こそが日本全土を統治する実質上の政府となったと言える。

南北朝時代には、南朝北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗る事を認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職である事を顕家が嫌った為である。

歴史上存在した俗説[編集]

源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が革命(易姓革命)的に交代するという源平交代思想や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという源氏将軍神話が存在した。「武家の棟梁である将軍に就く家柄は、清和源氏に連なる家系が相応しい」という認識が室町時代以降の武家の間で存在したかもしれないということは推察できないわけではなく、鎌倉幕府の滅亡によって、平氏を称する北条氏に取って代わり源氏の足利氏が征夷大将軍になったためこの様な俗説がでてきたのであろう。しかし実際には、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、清和源氏以外に平氏や藤原氏、そして皇族も就任しており、征夷大将軍になれるのは源氏に限られているわけではない。

織田信長が征夷大将軍にならなかったことについては、三職推任問題のように議論が続けられており定説があるわけではないが、少なくとも俗説のように「織田家が平氏の系図を称していたため征夷大将軍にはなれなかった」のではないことは明白であり、「豊臣秀吉が征夷大将軍となるために、源氏である足利義昭養子になる事を執拗に計ったが失敗したため、近衛家の養子となって関白に任ぜられた」という俗説では、秀吉が征夷大将軍就任を断っている事実に加え、朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強かったにもかかわらず、秀吉が関白就任を実現させている、という事実がある。「徳川家康は征夷大将軍に任命されるに当たって、系図を偽造して清和源氏と称した」という俗説では、家康が当時称していた藤原氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするため、また織田家が平氏を称していたために源氏を称した、というようなことが当を得た解釈といえる。このように、征夷大将軍就任に巷間で説かれる様な制約が存在したとは考えにくく、源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説は事実に反し誤りであり、源平交代思想も然りである。

天皇との関係[編集]

テンプレート:onesource 武家政権の征夷大将軍と天皇の関係について、ベン・アミー・シロニーの説を説明する。

天皇による任命[編集]

征夷大将軍は天皇の勅令によって任命された[出 5]。これを将軍宣下という。だが、武家政権下においては天皇の従順な臣下というよりは、天皇の統制者だった[出 6]

また、江戸時代に至ると、将軍は実際上の国内統治権や対外的な代表権のみならず、政治的な権威の面でも天皇を抑える様になった。江戸幕府の確立以降、四代徳川家綱以降の将軍宣下に当たっては勅使江戸城に赴き、将軍が上座、勅使が下座に立つのが礼法であり[出 7]、天皇への書面上も『公方様より禁裏へ』と対等の文言を使い[出 8]、さらに徳川秀忠徳川家光は天皇との会見の際、太上天皇と同様天皇と向かい通しで対面する[出 9]など、政治的権威の面でも天皇と同格となった。しかし幕末には天皇の権威が尊王思想の影響により回復し始めると、待遇が変更され、勅使が上座に立ち、将軍が下座に立つ[出 10]、また、将軍徳川家茂上洛の際も、朝廷の高官たちが家茂への礼遇を低くする[出 11]という変化が見られた。

鎌倉時代から江戸時代まで、幕府の長であり、武家の棟梁が位に就いて子孫が世襲する形を取った。だが、平氏政権織豊政権は、征夷大将軍に任じられず、幕府を開かずに武家政権を確立した。一部の将軍は、天皇と同様、子供時代に将軍職に就き、後継ぎに職を譲って引退した[出 12]。また、徳川将軍家には、皇室と同様「御三家(ごさんけ)」という傍系の家門があった[出 12]19世紀の初めには、将軍職にも皇位にも傍系の出身者がのぼっている[出 12]

天皇と征夷大将軍の地位[編集]

[出 13]

天皇は非力な存在で支配者ではないにもかかわらず、征夷大将軍を含めたいかなる支配者よりも上位にあった。征夷大将軍にとって、天皇は権力の正統性を付与する者として重要であった[出 14]。権力を握った人物は望んだ官職や称号を手に入れたものだったが、天皇の任命なしに手に入る訳ではなかった。天皇は朝廷の官人の上奏にもとづいて、手続きを延期できた。天皇にその地位を任じられ、またその地位に相応しい位階を授与されない限り、征夷大将軍として扱われる事はなかったのである[出 14]

源頼朝は、1192年(建久3年)、12歳の後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任命される迄7年も待たされ、受領した官位も正二位でしかなかった。130年もの間日本を支配した北条氏執権達も、従四位に甘んじなくてはならなかった[出 15]大御所徳川家康も、後陽成天皇によって征夷大将軍に任命される迄3年待たなくてはならず、その地位も従一位であった。

征夷大将軍らのドグマ「天皇不可侵」[編集]

[出 16]

権力闘争の競技者全員は、天皇なくして国家なく、皇室なくして天皇無し、というドグマを共有していた。日本人は宗教や政治についてドグマチック(教条的)ではないのだが、君主についてとなれば他国よりずっと厳しい教条主義を発揮するのである。天皇はソヴリン(最高権威者)であり、太陽神(天照大神)の末裔であり、権力に対する正統性を付与する者であり、日本の「本家」の当主であった。天皇は最高の社会的なステータスを享受していた。貴族であれ、大臣であれ、そして征夷大将軍であれ、いかなる権力者でも、このステータスに手が届かなかったのである。

皇位に手を出さなかった源平・戦国大名[編集]

[出 17]

平氏源氏の2つの氏族は、どちらも天皇の後裔(こうえい)だった。だが、一度皇族を離れ、臣下となった以上は、国全体の支配者にはなっても、天皇になる事はできなかった。この原則は殆どの場合順守された[注 9]平清盛12世紀半ばの日本の権力者であり、白河天皇の御落胤と目されていた。しかし、平氏の一員に迎えられて臣下となった為、不適格者となっており、あえて皇位を手に入れようとはしなかった。

源頼朝も天皇になれない立場だった。1185年(文治元年)、壇ノ浦の合戦で平氏に勝利すると、将軍職を世襲する一種の王朝を樹立しようとした。だが、頼朝の跡を継いだ2人の息子、頼家実朝が死んで3代で絶えてしまった。

次に政権を握った北条氏は、自らは将軍にならなかった。将軍の代行者である「執権」として国政にあたり、幕府の執権職を継承する一種の傀儡政権を樹立した。将軍職は皇族や藤原氏の分枝である九条家が、名目的な地位に据えられた[出 18]。この時代は、天皇も将軍職も、権力者の手には及ばなかったのである。

戦国大名も、天皇の王朝に取って代わる等という発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝に皹を入れることも避けようとした[出 19]。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、誰もがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、その様な事はしなかった[出 19]16世紀には、朝廷の官位官職を手に入れようと、互いに張り合うようになった[出 19]修理大夫衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったのである[出 19][出 20]

足利義満の野望「太上法皇と日本国王」[編集]

[出 17]

室町幕府の第3代将軍・足利義満は、天皇に取って代わって自分の王朝を開こうとした唯一の人物である。成年に達すると強引な権力者となり、支配を国中に及ぼし、南北朝時代に幕を閉じた。将軍職を退いても太政大臣となり、国政を続けた。生母を亡くした後小松天皇の母代わりとして、皇族出身でない自分の妻の日野康子を「准母(じゅんぼ)」に指名した。こうして、義満は天皇の継父に相当する事となり、死後「太上法皇(出家した太上天皇の尊称)」と呼ばれる事ができる資格を手に入れた(実際は遺族が辞退した)。1401年(応永8年)、と国交を樹立し、明の皇帝から「日本国王」の称号を受領した。これにより、征夷大将軍の地位にある人物が皇位に最も近づいた。しかし、1408年(応永15年)の義満の死で、彼の野望は潰えた。後継者の誰一人として義満の野望を繰り返そうとはしなかった。

指摘するべきは、義満の野望を妨げたのは、天皇でも征夷大将軍でもなく「そんなことはありえないことだ」という強力な暗黙の合意があった事である。

徳川家康の神格化「東照大権現」[編集]

[出 21]

天皇は神々に位(神階)を、神社に格(社格)を付与し、高位の僧職者に位階と称号(僧位)を授与していた。将軍や国土にも、その健勝と繁栄を祈った[出 22]。天皇は死者を神格化でき、また神格を取り消す事ができた。

1615年(元和元年)、徳川家康は後水尾天皇に、豊臣秀吉が死後与えられていた神格を取り消すよう要望した。翌年、家康が死ぬと、天皇は彼の生前の要望を受け容れて、家康を神格化した。東を照らす太陽神として顕現した薬師如来を意味する「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号を与えた。しかも、この神号は「正一位」の神階を伴っていた[出 23][出 24][出 25]。没後の将軍で、最も高い神号や神階だった。

第3代将軍・徳川家光は、家康を祀(まつ)る日光東照宮を造営した。また、伊勢神宮と同等の社格が与えられ、毎年、伊勢神宮と共に天皇の勅使が拝礼の為遣わされた[出 26][出 27]。それ以降、江戸時代の間、100前後の東照宮が日本全国に造られた。アメリカ合衆国カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授(日本史)、ハーマン・ウームズは、徳川の将軍達は、天皇・京都・伊勢の三要素に置かれていた<イデオロギー空間の中心>と同等の将軍家・江戸・日光の三要素を確立させようとしたのだ、と示唆している[出 28]

歴代の征夷大将軍[編集]

歴代 名 前 在職期間  備 考 [注 10]
巨勢麻呂 和銅2年(709年 (鎮東将軍)
 
多治比縣守 養老4年(720年
 - 養老5年(721年
(征夷将軍)
 
大伴家持 延暦3年(784年
 - 延暦4年(785年
(征東将軍)
中納言春宮大夫陸奥按察使従三位
紀古佐美 延暦7年(788年
 - 延暦8年(789年
(征東大将軍)
 
大伴弟麻呂 延暦12年(793年
 - 延暦13年(794年
史料での征夷大将軍の初見
従四位下→従三位、勲二等
坂上田村麻呂 延暦16年(797年
 - 大同3年(808年
陸奥出羽按察使兼陸奥守従四位下→大納言正三位
没後贈従二位
文屋綿麻呂 弘仁2年(811年
 - 弘仁7年(816年
(征夷将軍)
参議従三位→参議従三位
藤原忠文 天慶3年(940年 (征東将軍)
参議正四位下→参議正四位下
源義仲 元暦元年(1184年 (征東大将軍)
従四位下伊予守→従四位下伊予守
鎌倉:1 源頼朝 建久3年(1192年
 - 正治元年(1199年
建久5年(1194年)辞任の説あり。
正二位前権大納言
鎌倉:2 源頼家 建仁2年(1202年
 - 建仁3年(1203年
従二位左衛門督→正二位
鎌倉:3 源実朝 建仁3年(1203年)
 - 承久元年(1219年
従五位下→右大臣正二位左近衛大将
鎌倉:4 藤原頼経
(九条頼経)
嘉禄2年(1226年
 - 寛元2年(1244年
摂家(藤原)将軍。九条道家の子。
正五位下右近衛権少将→正二位前権大納言
鎌倉:5 藤原頼嗣
(九条頼嗣)
寛元2年(1244年)
 - 建長4年(1252年
従五位上右近衛権少将→従三位左近衛中将
鎌倉:6 宗尊親王 建長4年(1252年)
 - 文永3年(1266年
皇族将軍。後嵯峨天皇の皇子。
三品→一品中務卿
鎌倉:7 惟康親王[改 1] 文永3年(1266年)
 - 正応2年(1289年
従四位下→二品
鎌倉:8 久明親王 正応2年(1289年)
 - 延慶元年(1308年
後深草天皇の皇子。
三品→一品式部卿
鎌倉:9 守邦親王 延慶元年(1308年)
 - 正慶2年(1333年
不詳→二品
建武:1 護良親王 元弘3年(1333年)
 - 建武元年(1334年
二品兵部卿→同左
建武:2 成良親王 建武2年(1335年
 - 延元元年(1336年)
上野太守四品→同左
室町:1 足利尊氏[改 2] 延元3年(1338年
 - 延文3年(1358年
正二位権大納言→同左
贈従一位左大臣・追贈太政大臣
宗良親王 正平7年(1352年 南朝:1
室町:2 足利義詮 延文3年(1358年)
 - 貞治6年(1367年
参議従三位左近衛中将→正二位権大納言
贈従一位
室町:3 足利義満 貞治6年(1367年)
 - 応永元年(1394年
従五位下左馬頭→准三宮従一位前左大臣
将軍辞職後、太政大臣
尹良親王 元中3年(1386年) - 南朝:2
室町:4 足利義持 応永元年(1394年)
 - 応永30年(1423年
正五位下左近衛中将→従一位前内大臣
贈太政大臣
室町:5 足利義量 応永30年(1423年)
 - 応永32年(1425年
正五位下右近衛中将→参議正四位下右近衛中将
贈従一位左大臣
室町:6 足利義教[改 3] 永享元年(1429年
 - 嘉吉元年(1441年
参議左近衛中将従四位下→従一位前左大臣
贈太政大臣
室町:7 足利義勝 嘉吉2年(1442年
 - 嘉吉3年(1443年
正五位下左近衛中将→従四位下左近衛中将
贈従一位左大臣
室町:8 足利義政[改 4] 宝徳元年(1449年
 - 文明5年(1473年
正五位下左馬頭→准三宮従一位前左大臣
贈太政大臣
室町:9 足利義尚[改 5] 文明5年(1473年)
 - 延徳元年(1489年
従五位下左近衛中将→従一位内大臣右近衛大将
贈太政大臣
室町:10 足利義材[改 6] 延徳2年(1490年
 - 明応2年(1493年
従四位下右近衛中将→参議右近衛中将従四位下
室町:11 足利義澄[改 7] 明応3年(1494年
 - 永正5年(1508年
正五位下左馬頭→参議従三位左近衛中将
贈太政大臣
室町:12 足利義稙(再任)[改 8] 永正5年(1508年)
 - 大永元年(1521年
足利義材の再任。
従三位権大納言→従二位権大納言
贈太政大臣従一位
室町:13 足利義晴 大永元年(1521年)
 - 天文15年(1546年
正五位下左馬頭→従三位権大納言右近衛大将
贈従一位左大臣
室町:14 足利義輝[改 9] 天文15年(1546年)
 - 永禄8年(1565年
従四位下左馬頭→参議左近衛中将従四位下
贈従一位左大臣
室町:15 足利義栄[改 10] 永禄11年(1568年 従五位下左馬頭→同左
室町:16 足利義昭[改 11] 永禄11年(1568年)
 - 天正16年(1588年
参議左近衛中将従四位下→従三位権大納言
将軍辞職後、准三宮
江戸:1 徳川家康[改 12] 慶長8年(1603年
 - 慶長10年(1605年
従一位右大臣→従一位前右大臣
将軍辞職後、太政大臣。贈正一位
江戸:2 徳川秀忠 慶長10年(1605年)
 - 元和9年(1623年
内大臣正二位右近衛大将→従一位右大臣右近衛大将
将軍辞職後、太政大臣。贈正一位
江戸:3 徳川家光 元和9年(1623年)
 - 慶安4年(1651年
内大臣正二位右近衛大将→従一位左大臣左近衛大将
太政大臣宣下固辞。贈太政大臣正一位
江戸:4 徳川家綱 慶安4年(1651年)
 - 延宝8年(1680年
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:5 徳川綱吉 延宝8年(1680年)
 - 宝永6年(1709年)
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:6 徳川家宣[改 13] 宝永6年(1709年)
 - 正徳2年(1712年
内大臣正二位右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位。
江戸:7 徳川家継 正徳2年(1712年)
 - 享保元年(1716年
内大臣正二位右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:8 徳川吉宗[改 14] 享保元年(1716年)
 - 延享2年(1745年
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位
贈太政大臣正一位
江戸:9 徳川家重 延享2年(1745年)
 - 宝暦10年(1760年
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位
贈太政大臣正一位
江戸:10 徳川家治 宝暦10年(1760年)
 - 天明6年(1786年
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:11 徳川家斉 天明7年(1787年
 - 天保8年(1837年
内大臣正二位右近衛大将→従一位太政大臣
贈正一位。
江戸:12 徳川家慶 天保8年(1837年)
 - 嘉永6年(1853年
従一位左大臣左近衛大将→従一位左大臣左近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:13 徳川家定[改 15] 嘉永6年(1853年)
 - 安政5年(1858年
内大臣正二位右近衛大将→内大臣従一位右近衛大将
贈太政大臣正一位。
江戸:14 徳川家茂[改 16] 安政5年(1858年)
 - 慶応2年(1866年
内大臣正二位右近衛大将→従一位右大臣右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:15 徳川慶喜[改 17] 慶応2年(1866年)
 - 慶応3年(1868年
正二位権大納言右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将
明治時代、従一位公爵勲一等旭日大綬章
贈旭日桐花大綬章

参考文献[編集]

出典・脚注[編集]

出典[編集]

脚注[編集]

改名[編集]

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