日産自動車

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日産自動車株式会社
Nissan Motor Co., Ltd.
ファイル:Nissan logo.svg
種類 株式会社
市場情報 東証1部 7201
~NASDAQ NSANY
略称 日産
本社所在地 日本の旗 日本 220-8686
横浜市西区高島1丁目1番1号
電話番号 045-523-5523
設立 1911年(快進社自働車工場として)
自動車製造(株)の設立は、1933年12月26日
業種 輸送用機器
事業内容 自動車車種一覧を参照)
代表者 取締役共同会長兼社長兼最高経営責任者 カルロス・ゴーン
資本金 6,058億13百万円
2009年3月31日現在)
売上高 単独:3兆0533億12百万円
連結:8兆4,370億40百万円
(2009年3月期)
総資産 単独:3兆9,672億94百万円
連結:10兆2395億
(2009年3月31日現在)
従業員数 単独:30,389人
連結:15万5,659人
(2009年3月31日現在)
決算期 毎年3月31日
主要株主 ルノー 44.33%
主要子会社 日産車体ジヤトコ
関係する人物 鮎川義介川又克二石原俊
外部リンク www.nissan.co.jp(日本)
www.nissan-global.com(Global)
特記事項:

日産自動車株式会社(にっさんじどうしゃ、英称:Nissan Motor Co., Ltd.)は、神奈川県横浜市に本社を置く自動車メーカーである。フランスルノーアライアンスを結んでおり、事実上同社の傘下にある。日本のビッグスリーの一角。通称とブランド名は「日産 (NISSAN) 」。日本国外の一部では、高級車ブランドである「インフィニティ (INFINITI) 」も展開する。

概要[編集]

日産自動車は、日本の大手自動車メーカーである。芙蓉グループ(旧富士銀行系列)に属する東証一部上場企業であり、現在はフランスの自動車製造大手ルノーとアライアンスを結び、同社の傘下に入っている。

日産自動車の関連会社にはトラック・バス専門の日産ディーゼル工業ボルボに売却)や、モータースポーツ専門のニスモなどがある。

現在、親会社のルノーから派遣されたレバノン系ブラジル人(フランスとの2重国籍)のカルロス・ゴーンが取締役共同会長兼社長兼最高経営責任者 (CEO) を務める。なお、ゴーンは2005年4月より親会社のルノーのCEOも兼務しており、現在はゴーンCEOの指揮の下で日産出身の志賀俊之がCOO(最高執行責任者)を務めている。

日産自動車の2008暦年のグローバル販売台数は371万台で、日本では54万台販売した。また、同年のグローバル生産台数は339万台で、国内生産は129万台、日本国外生産は210万台であった[1]

販売車種[編集]

詳細は 日産自動車の車種一覧 を参照

歴史[編集]

創業[編集]

第二次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であった。「日産」という名称は、当時グループの持株会社であった日本産業が由来となっている。

創業期より先進技術の吸収に積極的で、日産自動車はフォード、GMなみの大型乗用車を製造するため、1936年に米国グラハムページ自動車会社から設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため1952年オースチン社と技術提携している。

1958年には、当時は世界で最も過酷な豪州ラリーに自社開発のダットサン210型が出場して見事にクラス優勝を飾り、1960年には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意とした事で医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。

1966年8月1日には、経営難に陥ったプリンス自動車工業株式会社と通産省主導により合併。名車スカイライングロリア中島飛行機立川飛行機の流れを汲む優秀な人材を戦列に加えた。

1973年の米国環境庁 (EPA) の燃費テストでサニーは第1位となり、この間、燃費向上のための高張力鋼板およびボディの防錆性の向上のための亜鉛ニッケルメッキ合金を用いた防錆鋼板(同社では「デュラスチール」と命名)、エンジンの燃焼制御技術の開発からCAD/CAM、産業用ロボットの開発まで、「技術の日産」として先端技術分野の先駆的役割を果たしてきた。

しかし、その反面、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給会社」が戦後に解散となった際、有力地元ディーラーが業界トップのトヨタ自動車系に組織化されたことも日産にとってはハンディとなり、「技術の日産」「販売のトヨタ」と言われていたほど、技術面では得意だった日産はもともと販売面では苦手で上手とは言えず、トヨタ自動車に1990年代以降販売面で差を広げられる。

経営危機[編集]

1980年代には「90年代までに技術世界一を目指す」という名の下、全車種を対象にエンジンをはじめ、シャシサスペンションの設計目標と、走行実験におけるハンドリング評価基準の大幅な底上などに力を注いだ「901運動」がおこなわれており、日本車の技術向上に大きく貢献したことでは一定の評価を受けている。

詳細は 901運動 を参照

1980年代後半のバブル景気時代には、K10型マーチをベースにしたパイクカーの第一弾として限定10000台で発売され2ヶ月で予約完売となったBe-1や、当時日本唯一の3ナンバー専用の高級車であったY31型シーマや、洗練されたデートカーとして人気となったS13型シルビアなどをヒットさせ、「Be-1効果」や「シーマ現象」なる流行語まで生みだし、「901運動」のもとに開発されたR32型スカイラインなどのスポーツ系車種をはじめとしてP10型プリメーラなどのセダン系車種なども高い評価を得るなど存在感を示していたが、1991年から1994年にかけて発売されたU13型ブルーバード4ドアセダンSSS・EEXY32型レパードJフェリーC34型ローレルR33型スカイラインS14型シルビアB14型サニーなどの主力車種における商品戦略やデザインなどの面での失敗で、もともと販売戦略が不得手な上にヒット車種が出せないまま販売不振に陥ってしまい、財務体質が悪化の一途を辿り、「901運動」でのコストの上昇を招いた走行実験部やデザイン部を中心としたリストラの断行や、「901運動」の遺産を食い潰すのみの状況となり、1998年には約2兆円もの有利子負債を抱えるほどにまで財務内容が悪化して経営危機に陥ってしまう。

その中でも、A32型セフィーロ、E50型エルグランド、K11型マーチなどがコンスタントに販売台数を記録して経営危機に陥っていた日産を支えていた。

その後、軽自動車市場の拡大を背景に、軽自動車を含めた国内シェアで、一時期ではあったがホンダの後塵を拝し、国内シェア第3位に転落してしまった。


車輌提供[編集]

ルノー傘下へ[編集]

継続的な販売不振により、2兆円あまりの有利子債務を抱え倒産寸前の経営状態となった1999年3月に、フランスの自動車メーカーのルノーとの資本提携(後述「ルノー=日産アライアンス」)を結び、更生を図ることとなった。当初は両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産自動車の負債の大きさや労働組合の抵抗などを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行き先を危惧した。

同年中に日本人社長の塙義一は解任され、ルノーの会長兼最高経営責任者(CEO)であったルイ・シュヴァイツァーの指示より同社副社長のカルロス・ゴーンが新たな最高経営責任者に就任した。ゴーンらのチームは、同年10月に発表した「日産リバイバルプラン(NRP)」のもとリストラを進めた。

ルノーからの資金や人員が注入されると同時に、東京都武蔵村山市にある村山工場や、京都府宇治市日産車体京都工場などの生産拠点の閉鎖、資産の売却、人員の削減などとともに、子会社の統廃合や取引先の統合、原材料の仕入の見直しなどによるコスト削減が行われた。

更に、車種ラインアップの整理と同時にデザインなどを刷新し、積極的な新車投入を行った結果、販売台数は増加。国内シェアでは第2位の座を奪回し、2003年6月には負債を完済した。

ルノー=日産アライアンス[編集]

2006年5月現在、ルノーは日産株の44パーセントを所有し日産を実効支配しているが、日産の所有するルノー株は全体の15パーセントである。さらに、フランスの法律により日産の保有するルノー株には一切の議決権が付随していない。従って、資本関係上は日産がルノーの連結子会社に近い状況とされる一方で、日産がルノーに対して有する権限は一株主でしかない。またルノーからは多くが日産の役員として送り込まれている他、多くの管理職クラスの人員も送りこまれているが、ルノーに日産出身の役員は皆無であった(2008年にルノーに日産から副社長が送り込まれている)。

他方、株式資本の総額は子会社の日産本体のほうが多く、「日産に投資するより、親会社のルノー本体に投資するほうが利にかなう」という逆転現象が起きている。ルノーは、買収後に多くの資本と人的なパワーを投下し、危機にあった日産の業績を急回復させたことにより、これまでに莫大な配当益を得ている。

ビジネス上では、車台(プラットフォーム)やエンジン、トランスミッションなどの部品の共通化、購買の共同化などを通じてコストダウンを図っているほか、ルノーの車を日産ブランドで販売、日産車をルノーのブランドで販売するなどの相互のOEM供給が行われている。また、同じルノー傘下である韓国ルノーサムスンにおいてもこのアライアンスを生かし、自社はもちろん、ルノーや日産ブランドでの製造・輸出を行っている。2005年1月には、当時のルノー会長のルイ・シュヴァイツァーが、「2010年までに日産自動車とともに世界市場の10%のシェアを確保し、年間400万台の生産を達成する」という目標を掲げた。ルノーでは傘下の日産を含めて、自社がフォルクスワーゲングループを上回る欧州最大の自動車メーカーであるとしている。

現在[編集]

ゴーンは日産自動車の建て直しの手腕が高く評価され、2005年4月からは親会社のルノーのCEOも兼務しており、現在はゴーンCEOの指揮の下、日産自動車生え抜きの志賀俊之がCOO(最高執行責任者)を務める。しかしながら、日産自動車の3カ年経営計画「日産180」(全世界での売上台数を100万台増加させ、8%の営業利益率を達成し、自動車関連の実質有利子負債をなくす)における販売台数目標達成のために、計画終了(2005年9月30日)前に集中して新型車投入を行ったことによる、計画終了以降の国内やアメリカ市場における販売台数の低迷や、ゴーン体制後を見越した権力闘争など、深刻な問題を残したままの親会社への復帰に疑問の声も上がっている。

ゴーン体制のもと系列解体が進み、非日産系部品メーカーや日本国外メーカーからの部品仕入れを積極的に行ったが、近年は日立製作所と組んで部品メーカーの囲い込みに力を入れている。

2008年には、サブプライムローン問題に端を発した金融危機や原油高騰による不況の中、世界販売台数は0.9%増加し、アメリカでは自動車販売台数が18%減少の中、日産は10.9%減にとどまった。

2007年春に、企業誘致に熱心な横浜市の「横浜みなとみらい21(MM21)地区」66街区に本社社屋の建設を着工し、2009年8月2日に「横浜グローバル本社」として竣工した。2009年8月7日に、長らく本社のあった東京・銀座から移転(登記簿上の本店は、横浜市神奈川区の横浜工場のまま)。当初は、2010年をめどに移転する予定であったが、2009年に横浜開港150周年を迎えるを機に1年前倒しとなった。この本社立地にあたり、神奈川県から施設整備等助成制度及び横浜市から企業立地等促進特定地域における支援措置を受けることができる。新社屋は建築家谷口吉生の設計。なお旧社屋は読売新聞東京本社が建て替えに伴う間の仮本社として2010年9月から2014年まで使用する予定。

沿革[編集]

本節において、投稿者個人やメディア等の推定に基づく記述、外部の個人サイトやブログ・電子掲示板などを出典とする記述を投稿するのは検証可能性を満たさない独自研究に該当します。
  • 1911年 - 東京市麻布区(現在の東京都港区麻布)に「快進社自働車工場」設立。
  • 1919年 - 大阪府に「実用自動車製造株式会社」設立。
  • 1926年 - 「実用自動車製造株式会社」と「快進社自働車工場」が合併し、「ダット自動車製造(本社:大阪)」設立。
  • 1931年 - 戸畑鋳物株式会社(現在の日立金属)(本社:北九州市、社長:鮎川義介)の傘下に入る。(事実上の企業買収)
  • 1932年 - 吉崎良造により「ダットサン商会」設立、ダットサンのブランドが誕生。
  • 1933年 - ダット自動車製造と石川島自動車製作所が合併し自動車工業株式会社[2]横浜市神奈川区に設立される。
  • 1933年 - 戸畑鋳物株式会社がダット大阪工場を70万円で購入。しかし、ダットサン(自動車)の製造権と設計技術者の後藤敬義、そして一群の人員は自動車工業株式会社に残る。
  • 1933年 - 戸畑鋳物株式会社の鮎川義介の懇願により、製造に関する一切の権利を自動車工業株式会社より「ダットサンの製造権」[3]を無償で譲り受ける。12月に鮎川義介はダットサンの製造のために「自動車製造株式会社」[4]を設立する。
  • 1934年 - 6月1日日産自動車株式会社に改称した。創業者は戸畑鋳物株式会社社長の鮎川義介である。鮎川は創立と同時に同社取締役社長に就任した。
  • 1944年 - 9月、東京都日本橋区(現在の中央区)に本社移転。日産重工業株式会社に商号変更。
  • 1946年 - 同年1月、本社事務所を再び横浜市に移転。
  • 1949年 - 8月に「日産自動車株式会社」の商号に復帰。
  • 1952年 - イギリスのオースチン社との技術提携を元にしたオースチン・A40サマーセットのノックダウン生産を開始。
  • 1966年 - スカイライングロリアを持つ「プリンス自動車工業株式会社」(富士重工業等と共に分割解体された旧中島飛行機の一部冨士精密工業の後身)と合併。
  • 1967年 - 宮内庁に、初の国産御料車プリンスロイヤル」を謹製・納入
  • 1968年 - 東京都中央区銀座木挽町に本社事務所を移転。
  • 1969年 - 「ダットサン・フェアレディ」の後継車、「日産・フェアレディZ」登場。
  • 1970年 - マリーン事業に進出。
  • 1970年代-1990年代 - 第二次世界大戦後からシェアを積み上げ、一時はトヨタ自動車につぐ日本国内第2位のシェアを占めていたが、日本国内の日産車のシェアが年々低下の一途を辿り、経営陣と塩路一郎委員長率いる強固な労働組合との激しい抗争が長期に及び、80年代後半には901運動による車両性能の向上と共に個性的なエクステリアデザインや商品戦略が各界から高く評価されて日産自動車全体のブランドイメージが向上するも、90年代に入り、バブル景気の崩壊後は財務が悪化した上にデザインや商品戦略などの相次ぐ失敗で販売不振に陥り経営危機が深刻化する。
  • 1981年 - 7月、国内向けの一部車種と日本国外向けの車種に設けられていた「DATSUN」ブランドを廃止して、順次「NISSAN」ブランドへ変更して統一する方針を発表。
  • 1989年 - スカイラインGT-Rが復活。
  • 1999年 - 3月に、フランスのルノーと資本提携し、ルノー=日産アライアンスを結成しルノーの傘下になる。4月にスライム兄が入社した。6月にルノー副社長のカルロス・ゴーン(現CEO)が最高執行責任者(COO)に就任し、リバイバル・プランを発表した。
  • 1999年 - 12月に日産自動車社員が関係した、他の社員に対するリンチ殺人事件が発生。日産自動車はこの事件に関して、被害者である社員は加害者社員に拉致監禁され出社が不可能であった最中に「会社施設およびその敷地内において、窃盗、暴行、脅迫、その他これに類する行為をしたとき」(従業員就業規則第85条第6項)という事実無根の理由で退職金不支給の諭旨退職処分を行った。(黒木昭雄週刊朝日2001年4月27日)
  • 2001年 - ゴーンが6月に社長最高経営責任者 (CEO) となる。
  • 2002年 - スズキより、軽自動車MRワゴン」のOEM供給を受け、「モコ」として発売開始。軽自動車市場へ参入を果たし、ゴーンが「日産リバイバルプラン」の目標達成を宣言した。ローレルおよびサニーといった日産を代表する車種の名(歴史)を廃止し、新たに歩み始める。
  • 2003年 - 2月、セフィーロを廃止し、前年に廃止となったローレルとの統合後継車としてティアナを投入。
  • 2004年 - 9月、サニーを廃止し、ティーダを発売。10月、セドリックグロリアを廃止し、フーガを発売。
  • 2005年 - 4月より従来の販売会社別での取り扱い車種を撤廃、全販売会社(レッドステージ&ブルーステージ)ですべての車種の購入が可能となる。
  • 2005年 - 経営再建中の三菱自動車工業との包括的な事業提携。それに伴い、事業提携の一環として三菱製軽自動車eKワゴンのOEMとしてオッティを投入。
  • 2005年 - 4月にゴーンが親会社のルノーの会長兼CEOに就任、日産の会長兼CEOも兼務する。
  • 2005年 - 9月に、ゴーンが進めてきた日産180(リバイバル・プラン)を終了。その後日米市場で販売台数が急落する。
  • 2006年 - 6月に、グローバル生産累計台数1億台突破。
  • 2007年 - 12月、スカイラインの名前を捨て、新たな道を歩む日産GT-Rを販売開始。
  • 2008年 - UDトラックス(旧:日産ディーゼル)の株式をVolvo Motorsへ譲渡。
  • 2009年 - 8月、本社所在地を東京・銀座から横浜みなとみらい21地区に本社移転(登記簿上の本店所在地は従来通り、横浜市神奈川区宝町)。

歴代社長[編集]

日産生産方式 (Nissan Production Way)[編集]

日産自動車が21世紀の生産・販売戦略として導入した生産方式。顧客の注文に基づく詳細な生産指示書を関係工程に指示し生産する方法で、これにより受注から納車までの時間が最短で3日という迅速な生産を実現した。現在、インフィニティブランドを取り扱う栃木工場などに導入されている。

ロゴマーク・企業フォント[編集]

日産自動車のロゴマークはもともと「ダットサン」で使われていたもので、吉崎良造(よしざき りょうぞう)と田中常三郎(たなか じょうざぶろう)がシボレーのマークにヒントを得て、赤の日の丸と太陽をベースに天空をモチーフとしたコバルトブルーをいれ、真ん中に白で横一文字で「DATSUN」と書かれていたのが前身である。(なお、1937年に制定された社章=記章、株券等に使用していた=は、日の丸の真中に一本の横棒を挿入し、周囲を“日”を抽象化したもので囲ったもので、日立や日本興業銀行の社(行)章と類似していることから、発足時からの「日産・日立・興銀」の関係も表していた、とされている。現在は「至誠天日を貫く」と位置づけられている。)

その後、文字を筆記体のカタカナで「ニッサン」[5] と書き直し日産コンツェルン全体の社紋として統括企業に普及するが、戦後の財閥解体とともに日産自動車のみの社紋としてローマ字表記の「NISSAN」に変更となった。

創業50周年を迎えた1983年には、アメリカのペンタグラム社が制作したロゴマーク及び指定フォント(書体)に一新され、さらに1999年以降のルノー傘下になってからのゴーン体制下でデザインが社内コンペで募集され、より立体的なものへと小変更され、2001年にフルモデルチェンジしたシーマ(F50型)、プリメーラ(P12型)から採用されて現在に至る。ちなみに、このとき採用されたロゴのサンプルは現在でもゴーンのオフィスに飾られているという。

企業フォントはTBWA開発の「NISSAN AG(Aktidenz Groteskの日産バージョン)」とモリサワ新ゴ」の組合せ、車名バッジは先代ブルーバードシルフィからNE-01というフォントに基本的に統一されている。

赤・白・青は、日産自動車のコーポレートカラーにもなっていて、トリコロールの愛称で日産らしさの象徴としても親しまれている。

なお、カタカナの車名ロゴは、2001年にロゴマーク及び指定フォント(書体)が一新された後も、1983年の創業50周年を機に米ペンタグラム社が製作した指定フォント(書体)が引き続き使用されていたが、2007年5月にマイナーチェンジして発売されたラフェスタ(B30後期型)、新規車種として発売されたデュアリス(J10型)以降から、新たに製作された指定フォント(書体)に一新されている。

そのほか、日産ディーラーの各販売店の大型看板 (Blue Stage, Red Stage, Red & Blue) の指定フォント(書体)は、1983年に米ペンタグラム社が製作した指定フォント(書体)を引続き使用している。

キャッチフレーズ[編集]

メイン・キャッチフレーズ[編集]

  • 世界の日産(1960年代-1970年)
  • 人とクルマの調和をめざす 日産自動車(1971年-1975年)
  • 人とクルマの明日をめざす 技術の日産(1975年-1981年)
  • 世界に愛される 先進技術の日産(1982年)
  • もう走り始めています 21世紀へ 先進技術の日産(1983年-1985年)
  • Feel the Beat もっと楽しく感じるままに 技術の日産(1985年-1991年)
  • LIFE TOGETHER 人間のやさしさをクルマに(1991年-1998年)
  • クルマのよろこびを(1999年(ルノー提携前))
  • NISSAN, RENAISSANCE(1999年(ルノー提携後)-2000年4月)
  • SHIFT_the future(2000年5月-2008年10月)
  • SHIFT_the way you move クルマの可能性を、未来へ。(2008年11月-現在)

サブ・キャッチフレーズ[編集]

  • 無理のない運転で、貴重なエネルギーを大切に(1970年代-1985年)
  • 安全は人とクルマで作るもの(1970年-1985年)
  • シートベルトは“安全ベルト”正しく使う習慣を(1970年代-1985年)
  • スペース・テクノロジー(1983年)
  • 20世紀の残りは日産がおもしろくする(1990年-1991年)
  • いい運転 日産からのお願いです。(1990年-1991年)
  • 熱血業界宣言(1990年代前半)
  • スピードおさえていい運転(1991年-)
  • 変わらなきゃ(1995年)
  • 変わらなきゃも 変わらなきゃ(1996年)
  • もっと日産になる(1997年-1998年)
  • SHIFT ワード(車種別広告でのキャッチフレーズ)(2004年-現在)

フェア&イベント・タイトル[編集]

  • 日本全国日産デー(1983年-1992年、1994年)
1986年 - 1987年頃に展開されていたCMには、当時デビューして間もない、歌手・タレントの西村知美がCMの専属キャラクターとして起用されていた。
  • ヨンセンマン(1992年)
日産自動車の生産累計台数が4000万台達成した事を記念し、数々の特別仕様車が発売され、車のボディをモチーフにした顔が特徴的な「ヨンセンマン」のCGアニメキャラクターが存在していた。
  • 熱血大感謝フェア(1993年)
1993年の創業60周年を記念し、数々の60周年特別仕様車などを取り揃えた、「熱血大感謝フェア」と名付けたキャンペーンCMの専属キャラクターとして、「熱血業界宣言」キャンペーン専属のCMキャラクターを務める吉田栄作をはじめとして、島崎俊郎神田利則中山美穂松居直美中條かな子が起用された。
  • イチロニッサン(1995年-1999年)
1993年から1994年にかけて、日産は相次いでフルモデルチェンジした新型車を投入していたが、新型車の評判がフルモデルチェンジ前の旧型車と比較して芳しくなく販売不振が続き、その結果、人気度・信頼度・企業イメージが低下していた日産全体の建て直しと、タクシー・パトカー・教習車モデルを除く乗用車全車種に、運転席SRSエアバッグを標準装備化して他メーカーとの差別化を図った事による販売回復の起爆剤になることを願って、野球選手のイチロー、野球解説者(当時)の原辰徳、サッカー選手の川口能活、ボクシング選手の辰吉丈一郎、タレントのかとうれいこといったの大物スポーツ選手、タレントをCMに起用し、「変わらなきゃ」「変わらなきゃも変わらなきゃ」「イチロ・ニッサン」「こんどの週末は、イチロ・ニッサン」「エアバッグなら、イチロ・ニッサン」「エアロRVなら、イチロ・ニッサン」「イチロ・エアバッグ」「イチロ・エアロ」「ワゴンボックスに乗ろう」などのキャッチフレーズで好評を得ていた。
なお、「ワゴンボックスに乗ろう」のキャッチフレーズのCMでは、元マラソンランナーの増田明美が、マラソンの実況解説風のCMナレーションを担当していた。
それに対して、危機感を抱いたライバルメーカーのトヨタ自動車は、乗用車全車種にエアバッグの標準装備化に加えてABSも標準装備化して、日産自動車のCMに起用のの野球選手のイチローに対抗してライバルの野球選手の野茂英雄を起用したり、ABS(エービーエス)をエビスという駄洒落的なネタに因んでタレント・漫画家の蛭子能収(えびす・よしかず)をCMに起用して日産自動車に対抗していたが、こうした安全装備の標準化による日産VSトヨタでの販売競争が他メーカーにも波及し、後に、軽自動車を除くほとんどの国産車でエアバッグとABSが標準化されるきっかけにもなった。

日産のエンジン型式[編集]

詳細は 日産のエンジン型式一覧 を参照
BYR color wheel.svg この項目ではを扱っています。
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日産では、1960年代以降、以下のような規則でエンジン型式を定めているが、ルノーと共同開発したM9R型ディーゼルエンジンには適用されない。また、OEM供給を受けている車種が搭載している他社製エンジンや、一時期シビリアンが採用していた三菱ふそう製ディーゼルエンジンなども、当然にこの規則が適用されない。

1 2 3 4 5
エンジン系列名 排気量(100cc未満は四捨五入) バルブ機構 燃料供給方式 過給器

1 エンジンのシリーズ名をアルファベット1~2文字で記す。80年代の前半までは1文字のものが多かったが、現在はすべて2文字である。

  • オースチンBMC)「Aタイプ」をコピーした「A」(部品レベルの完全なコピー)
  • メルセデス・ベンツロッカーアーム(locker arm)式OHCのコピーで「L」
  • もと「プリンス自動車」の「G」系はそのまま「G」
  • ツインプラグで「究極」の排ガス対策の意味で「Z」
  • エコノミカルの「E」
  • マーチ/マイクラ用の「MA」
  • スモールディーゼルの「SD」

など、分かりやすいネーミングが多い。また、慣例的にV型エンジンには「V」(かつてのV型8気筒 「Y」型を除く)、ディーゼルエンジンには「D」が使われている。また1980年代後半以降に開発された比較的新しい直列4気筒ガソリンエンジンは「○R」とつけられる傾向がある。

2 1960年代以前は開発順に番号が付けられていたが、それ以降は排気量の100cc未満を四捨五入し、100で割った値。呼び排気量が1000ccに満たない場合は、頭に0をつける(例 MA09)。ただし、CG13の後継でCGA3DEとなった例外もある。

車検証の原動機型式欄に記載されるのはここまで。なお、3~5は「VQ25HR」などこれに従わない機種もある。

3 無印の場合はSOHCまたはOHV、「D」とついている場合はDOHC、「V」がついている場合はNEO VVLもしくはVVEL(可変バルブリフトタイミング)である。ただし、FJ系は全機種DOHCであるため空欄となっている。

4 無印か「S」の場合はキャブレター(ガソリン車)、「T」はツインキャブまたは機械式燃料噴射ポンプ(ディーゼル車)、「i」はシングルポイント インジェクション、「E」は電子制御式燃料噴射装置(ガソリン車:EGI マルチポイント インジェクション、ディーゼル車:EDI 電子制御機械式燃料噴射ポンプ)、「P」はLPGエンジン、「N」はCNGエンジンを表す。「D」はガソリン、ディーゼルともに「NEO Di」と呼ばれる直噴エンジンであるが、ディーゼルの場合、通常のインジェクターと、ユニットインジェクター(UI)、コモンレール式のソレノイドインジェクターの区別は無い。

5 無印の場合はNA(自然吸気)、「T」が1つの場合はシングルターボ、「TT」の場合はツインターボ。「R」はスーパーチャージャー(Roots blower:ルーツブロアー)付き、さらに、スーパーチャージャーとターボチャージャを組み合わせると「RT」となる。
ディーゼルエンジンでインタークーラー付きの場合は、後に「i」がつく(ただし、ガソリン車にインタークーラー付きターボエンジンがなかったわけではなく、CA18DETにはインタークーラー付きとインタークーラーなしがあったがエンジン型式はどちらも「CA18DET」だった)。

実例

A10

A 10 なし なし なし
Aシリーズ 1000cc OHV キャブレター 自然吸気

CA18i

CA 18 なし i なし
CAシリーズ 1800cc SOHC シングルポイントインジェクション 自然吸気

SR20VET

SR 20 V E T
SRシリーズ 2000cc NEO VVL EGI マルチポイントインジェクション シングルターボ

VQ23DE

VQ 23 D E なし
VQシリーズ 2300cc DOHC EGI マルチポイントインジェクション 自然吸気

YD25DDTi

YD 25 D D Ti
YDシリーズ 2500cc DOHC NEO Di インタークーラー付ターボ

VG33ER

VG 33 なし E R
VGシリーズ 3300cc SOHC EGI マルチポイントインジェクション ルーツ式スーパーチャージャー

RB26DETT

RB 26 D E TT
RBシリーズ 2600cc DOHC EGI マルチポイントインジェクション ツインターボ


日産車のエンジン用語解説[編集]

軽快感やさわやさかを旨としているトヨタとは正反対とも言える、やや誇大で硬いネーミングが多いのが特徴。これは電通博報堂の戦略の違いとも言われる。

(Powerful&Econonomic-Lightweight-Accurate-Silent-Mighty-Advanced) の頭文字を取った造語
日産の新世紀エンジン・シリーズの愛称。トヨタのLASRE(レーザー)エンジンに対抗するために付けられた。
日産自動車における新開発エンジンの総称で小型・軽量・高性能・低燃費・静粛性と耐久性など全ての要素を高次元で調和させた新世紀エンジンの意向での(当時の)高性能エンジンシリーズであった。
PLASMAは(当時の)先進のテクノロジーと最新のエレクトロニクスを駆使した日産のエンジンにあたえられた称号であった。
  • NEO
(Nissan Ecology Oriented performance)の頭文字を取り、英語の接頭辞で「新しい」という意味のneoともかけている。
1990年代後半以降に登場したエンジンにはこの称号が与えられた。「日産(Nissan)が提案する、環境を大切にしながら(Ecology Oriented)、かつ卓越した走り(Performance)を実現する次世代の新しい(NEO)エンジンシリーズ」である。
「NEOストレート6」(この時期に設計を一新したRB系エンジン)、「NEO Di」(直噴エンジン)、「NEO VVL」(可変バルブ機構)といったバリエーションがある。
この称号が与えられたエンジンは、エンジン形式の後ろに(NEO)が付く。
(Electronic-Gasoline-Injector) の頭文字を取った造語。
日本車では初採用の電子制御燃料噴射装置。ただしこの英文自体和製英語である(Electronic-Fuel-Injector がより正確だがこの短縮形EFIは日本ではトヨタの登録商標になっており、トヨタ及びダイハツ工業のみが使用できる)。
インジェクターの名称は登録商標化したため各社毎に別の名称だが、日産が投入した当時グループ企業だった富士重工のみは共用が認められており使用している。
  • NISSAN ECCS「エックス」システム
(Electronic-Conetrated-Engine-Control-System) の頭文字を取った造語。
電子式エンジン集中制御システムの事で一つのマイクロコンピューターにより、エンジンのあらゆる運転状態に応じ、燃料噴射、排ガス還元量、アイドル回転数、フェールポンプ制御などを常に最適なレベルコントロールにする事によって、燃費の向上や排気ガスのクリーン化、運転性の向上を実現させている。
ECCSエンジンの制御はあらかじめコントロールユニットに多くの運転状態における最適制御値を記憶させ、その時々の状態をセンサーで検出、センサーからの入力信号により、コントロールユニットが記憶しているデーターの中から最適値を選出しアクチェーターに出力し、制御する。
世界初の電子制御ユニットであり、日産ECCSが現在のECUの元祖である。当時の月間自家用車誌によれば、VW社から技術供与して欲しいとの依頼があったとされる。
  • NISSAN NVCSシステム
(Nissan-Valve-Timing-Control-System) の頭文字を取った造語。
日産自動車のエンジンに搭載される位相可変型可変バルブタイミング機構。
量産車では世界初の可変バルブタイミング機構。バルブタイミングは2段切り替え式。
現在は連続可変のCVTC(油圧式と電磁式)に発展している。
日産自動車が開発した世界初のナノテクノロジーを活用した超低フリクション化技術。
従来コーティングと比較して部品間のフリクションを約40%低減する。

2008年時点ではバルブリフターにのみ採用されているが将来的にはピストンリングやピストンピン等への採用も先進技術発表会等で公表されている。

  • NISSAN VVELシステム
(Variable-Valve-Event-andLift-system) の頭文字を取った造語。
CVTCとの併用で、バルブの作動角とリフト量を連続的に可変制御する機構。
BMW社が世界に先駆けて開発したVANOSと組み合わせたバルブトロニックと同じ効果がある。
BMW社のバルブトロニックに対しては、リンク機構のみでリターンスプリングがないため、フリクション低が小さく可変領域が大きい。また高回転での作動も安定しているのが特徴。

日産の車両型式[編集]

1970年代までに開発された車種には3桁の数字が割り当てられ、モデルチェンジのたびに百の位を増やしていった。各型系初代の百位は「0」で、表記されないため2桁となる。車種の増加に伴い数字の重複が起こり、識別のためアルファベット1文字が付与される場合があった。

同一型系で、エンジン型式や排ガス値に変更があり、新たに型式認証を受けた場合は一の位を増やしていく。

サニーキャブ / チェリーキャブ / バネット
キャブオール / エコー / シビリアン
それぞれのグループはシャシ共用車。

モデルチェンジした際に最初のアルファベットが変わることがある(例:スカイラインは5代目まで「C」、6代目から10代目まで「R」、11代目以降は「V」と変化している。ただし、「R」代までシャシを共用するローレルは最後まで「C」だった)。

  • エンジン識別記号
    • 無印 - 基準排気量
    • P - 排気量拡大版、または高性能版
    • H - 「P」よりも排気量の大きいもの、または高性能なもの

型式10位の数字

  • ダットサン
    • 1 - 小型乗用(小排気量) - スカイラインは本来「3」だが、政治的な理由で小型扱いとなった。
    • 2 - 小型貨物(小排気量)
  • ニッサン
    • 3 - 小型・普通乗用(中排気量) - S30 型系フェアレディZのみはダットサン。
    • 4 - 小型・普通貨物(中排気量) - エコー / シビリアンキャブオールシャシのため「4」。
    • 5 - 普通乗用(大排気量)
    • 6 - 普通商用(大排気量) - サファリには乗用登録モデル(3ナンバー)あり。
    • 7 - 大型乗用車(戦前) - ニッサン・乗用車、中型貨物(戦後) - キャリアー
    • 8 - 大型貨物 - 日デとの提携後、780型系を最後に廃止(1976年)。3.5t積トラック(C80型)
    • 9 - 大型バス - 同じく690型系を最後に廃止(1972年)。トラックシャシ流用の場合は「8」。

なお、型式10位の付番法則は現在でも踏襲されている。セレナは乗用車だが、バネットコーチ時代の名残で「2」が振られている。

C31ローレル以降はアルファベット1文字に2桁の数字を合わせ、モデルチェンジの度に一の位を変えることになった。そのため、同一車種でエンジン・車体形状などの変更、シャーシを共有した異なる車種の場合は、型式名の前(排ガス記号ハイフンの後)にアルファベットが加えられている。これは車両によってバラバラだが、下記の仕様については共通のアルファベットが割り当てられる。

現行のルールが制定されてから初めてモデルチェンジした際に、上記のアルファベットがない車種はアルファベットを新しく定めた上で一の位を「0」(ブルーバードは「1」)から振りなおした。アルファベットがある車種はそれをそのまま使い「1」から振っている(サニー:B11~ ローレル:C31~ キャラバン / ホーミー:初代が「E22」のため、E23~)が、スカイラインは「R」に変えて0から(R30)、フェアレディZは「Z」に変えて1から(Z31)振っている。

現行のルール制定後に登場した新規車種は原則として「0」から始まるようになっているが、既に使用された型式と重複する場合は「1」から振ることもある。

モータースポーツ[編集]

詳細は 日産自動車のモータースポーツ を参照

生産拠点[編集]

ブランド[編集]

  • 「日産」ブランド(現行)
  • インフィニティ」ブランド(現行) - 1989年、北米で設立。
    • プリンス」ブランド(停止) - 1966年8月1日に日産との合併以後、順次「ニッサン」ブランドに変更。
    • ダットサン」ブランド(停止) - 1981年以後、順次「ニッサン」ブランドに変更。

販売会社[編集]

テーマパークのスポンサー[編集]

日本国外の事業所および販売[編集]

  • 韓国日産 (NISSAN/INFINITI/RENAUT/SAMSUNG)
  • 日産自動車北京事業所
  • 日産自動車香港事業所 (HONEST MOTOR LTD)
  • 日産自動車上海事業所
  • 日産自動車大連事業所
  • 日産汽車(中国)有限公司 (NISSAN/INFINITI/RENAUT/DONGFENG)
  • 日産自動車台湾事業所 (NISSAN/YULOONG)
  • 日産モータースマレーシアBHD
  • 日産自動車クアラルンプール事業所
  • 日産自動車シンガポール事業所 (NISSAN MOTOR SINGAPORE PTE.LTD)
  • タンチョンモーターPTE.LTD(シンガポール)
  • ニッサンモーターフィリピンズ (NISSAN MOTOR PHILIPPINES INC)
  • 日産自動車バンコク事業所
  • 日産タイランドリミテッド
  • 日産自動車インディアリミテッド
  • 日産自動車ジャカルタ事業所
  • PT.日産モータースインドネシア (PT.NISSAN MOTORS INDONESIA)
  • 日産自動車シドニー事業所
  • 日産自動車メルボルン事業所
  • 豪州日産自動車 (NISSAN MOTOR AUSTRALIA PTY)
  • 日産ニュージーランドリミテッド
  • 日産自動車カラチ事業所(パキスタン)
  • 日産自動車ドバイ事業所
  • 日産セールス・オブ・ミドルイースト(NISSAN/INFINITI/RENAUT)
  • 日産自動車ロサンゼルス事業所
  • 日産自動車ニューヨーク事業所
  • 日産自動車バンクーバー事業所
  • 日産自動車トロント事業所
  • 日産自動車モントリオール事業所
  • 日産ノースアメリカ(INFINITI/NISSAN)
  • 日産自動車サンパウロ事業所
  • 日産ブラジルLTDA (NISSAN/RENAUT)
  • ルノーアルゼンチンS.A.
  • 日産自動車ブエノスアイレス事業所
  • 日産モートル・デ・アルゼンティーナS.A.
  • 日産自動車リマ事業所
  • 日産モートル・デ・ペルーS.A.
  • 日産自動車メキシコシティ事業所
  • メキシカーナ日産S.A. (NISSAN MOTOR DE MEXICANA)
  • ルノー・メキシカーナS.A.
  • 日産自動車サンチアゴ事業所 (NISSAN MOTOR SERVICIO DE CHILE)
  • 日産丸紅セルビシオ・デ・チリS.A. (現地丸紅との共同出資)
  • シデフ社(チリ:日産車正規ディーラー)
  • 日産コロンビアS.A.
  • 日産エクアドルS.A.
  • 日産セルビシオ・デ・ベネズエラS.A.
  • 日産セルビシオ・デ・パラグアイS.A.
  • 欧州日産自動車エヌヴィ(NISSAN MOTOR EUROPE N.V.)
  • 日産自動車モスクワ事業所
  • 日産ロシアエヌヴィ
  • 日産ジャーマンGmBH
  • 日産自動車フランクフルト事業所
  • 日産フランスS.A.
  • 日産自動車パリ事業所
  • 日産自動車ローマ事業所
  • 日産自動車ブリュッセル事業所
  • 日産自動車アテネ事業所
  • 日産自動車マドリード事業所
  • 日産自動車コペンハーゲン事業所
  • 日産自動車ヘルシンキ事業所
  • 日産自動車マンチェスター事業所
  • 日産自動車ロンドン事業所
  • 日産サウスアフリカLTD
  • 日産自動車ヨハネスブルク事業所
  • 日産自動車テヘラン事業所
  • 日産自動車ケニア事業所
  • 日産自動車カイロ事業所

関連企業・団体[編集]

脚注[編集]

  1. 日産自動車 2008年12月度および2008年1月〜12月累計 生産・販売・輸出実績 NISSAN PRESS ROOM
  2. 自動車工業株式会社東京瓦斯電気工業と合併し、東京自動車工業を経てヂーゼル自動車工業となる。その後、日野重工業(後の日野自動車)が分社、戦後ヂーゼル自動車工業はいすゞ自動車となる。
  3. 東京自動車工業の設立は、商工省の意向による軍用保護自動車および商工省標準車いすゞの生産を主体としたものであり、ダットサンの如く小型車製造はその対象外であった。
  4. 自動車製造株式会社は日産の源流であり、自動車工業株式会社と名前は似ているが別会社である。
  5. 下記「車両形式」欄にあるC10型系スカイラインGT-Rのメーカーズプレートの写真を参照のこと

関連項目[編集]

技術関連[編集]

モータースポーツ関連[編集]

広告関連[編集]

冠大会[編集]

その他[編集]

スライム兄、メンバー

外部リンク[編集]