極東国際軍事裁判

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東京裁判
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極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)は東京裁判(とうきょうさいばん)ともいい、第二次世界大戦日本降伏した後、連合国戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判。

概要[編集]

罪状は東條英機首相を始め、日本の指導者28名を「文明」の名によって世界征服の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪に加えて「平和に対する罪」でも起訴されたが、裁く側はすべて戦勝国が派遣した人物だったことから、"勝者の裁き"とも呼ばれる。

ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク法廷が連合国の管轄下にあったのとは違い、本裁判はダグラス・マッカーサー司令官が布告する極東国際軍事裁判所条例に基づいて行われた。

そもそもチャーター(極東国際軍事裁判所条例)は国際法に基づいておらず、この裁判は政治的権限によって行われたとの批判もある一方、「事後法」やその他の不備など批判の多い裁判ではあったが、平和に対する罪などの新しい概念を生み出し、戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげる第一歩となったという評価もある。

国際刑事裁判所の歴史 も参照

主眼は戦争責任追求の幕引き[編集]

日本の属国化政策について旧来の保守-支配勢力と結びつき、それを通じて効率的な間接統治を行う方針を採用したアメリカは、この勢力と支配体制を温存する方策を採った。それが一部のスケープゴートを戦犯として裁き、それに全ての罪を被せることで残りの大部分を国内外の責任追及から免責する、東京裁判という「儀式」であった。

その意味では、東京裁判は日本の属国化を最優先した結果であり、一見すると戦争責任者の処罰のようにも見えたが、実態においてはむしろ民主化に逆行するものであった。実際起訴されたのは僅かに28名で更に死刑判決を受けたのは7名に過ぎず、しかもそのうち6名が軍人であった。戦力不保持を決めた新憲法の下で、戦前のように軍が多大な政治的影響力を持つことはなくなっており、軍部は保守-支配勢力全体にとっても用済みの存在であった。無論、軍が先立ってこの戦争に突き進んで行ったのだが、それを後押しした政財界としてはこの用済みの軍隊に全ての罪を被せてほっかむり出来るというのは願ってもない話であった。

経過[編集]

1946年昭和21年)1月19日降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年(昭和21年)4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて裁判が行われた。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は日本政府が支出した。

ウィリアム・F・ウエップ裁判長
判事席

連合国(戦勝国)からの判事としてはイギリスイギリス領インド帝国アメリカ中華民国フランスオランダオーストラリアニュージーランドカナダフィリピンソ連の11ヶ国が参加した。なお、イギリス領インド帝国は、その名の通りイギリスの属領で事実上の植民地であった。

当初55項目の訴因があげられたが最終的に10項目の訴因にまとめられた。なお判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリアドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。

1946年5月3日より審理が開始し、1948年(昭和23年)11月4日判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・F・ウエップは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。

イギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とフィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。

一方、オランダとフランス、イギリス領インド帝国の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。インドの判事はこの裁判が国際法からみて問題があるという少数意見書を提出した。これら少数意見は法廷で読み上げられることはなかった。

絞首刑死刑)の執行は12月23日に行われた。この日は当時皇太子だった明仁親王の誕生日(現天皇誕生日)であったので、見せしめのためとの意見もある。

なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる(木戸幸一日記、8月29日付[1])。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。

敗戦時の首相・鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている。

裁判をしないことが裁判の目的[編集]

本来この戦争の最高責任者として被告席に立つはずの昭和天皇であったが、戦犯訴追も退位もなく、戦後も天皇の地位にとどまった。「国体護持」を切望する日本政府の要望に応えて、アメリカが昭和天皇訴追を要求する連合国各国を押し切った結果である。

「昭和天皇は20個師団に相当し、天皇を東京裁判で訴追すれば最低でも100個師団の長期駐留が必要になる」という、マッカーサーアイゼンハワー大統領に宛てた電報にも明らかなように、アメリカは天皇制を存続させるだけでなく、昭和天皇個人についても免責し利用する方針に切り替えていた。既存の支配構造を利用するためには、それを精神面から支えていた「神権天皇制の論理」を守る必要があったためである。

神権天皇制の論理[編集]

この国の支配勢力が、神権天皇制の下で構築した国民に対する精神的な支配体制は、先に成立した政治的な支配体制を活用した強権的な皇民化教育の徹底によって国家神道という宗教に国民を帰依させることで成立したものであった。そこから導き出されたのは「お国のため=天皇陛下のため」という、単純な絶対的忠誠と服従の論理であった。

この論理の下、政府は天皇の権威を借り、それが支配階級の私利政策であっても国民に対し絶対的服従を命令することが出来た。天皇という「ご本尊」を崇め奉ることで、政府という「教祖」は一般国民という「信者」に対し、絶対的権力を振るうことが可能となったわけである。

しかし形式上はあくまで「天皇陛下のため」であって、首相も元帥も天皇の前では一般国民と同じ「陛下の赤子」であった。そのために「命を懸けてお国=陛下を守れ」と国民に命令してきた政府が、自らの保身のために天皇を見殺しにしたとあっては、教祖失格であり、逆賊となってしまう。そうなってしまっては、支配勢力はアメリカに協力したくても協力できず、つまり意思ではなく能力の問題であった。だからこそ「国体護持」に固執せざるを得ないという、その支配勢力の「神権天皇制の論理」は、アメリカに対し合理的な説得力を持ち得たわけである。


評価[編集]

被告席

極東国際軍事裁判は戦勝国が敗戦国を裁くという構図であったため、その評価については議論の対象になることが多い。

この裁判では原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とされず、証人の全てに偽証罪を問わなかった。また、罪刑法定主義法の不遡及が保証されなかったのも明らかである(確かに「平和に対する罪」はどのように考えても事後法であり、事後法である以上法治主義の根本原則に違反している)。こうした欠陥の多さから、東京裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も珍しくない。

当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。これによりほとんどの国際法の専門家の中では本裁判に対する否定的な見方が多い。とはいえ、「この裁判自体が無効である」と主張する国際法学者がほとんどであるというわけではない。

また、この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った"平和主義"を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もごく少数ながらある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になっただろうとする説もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)。

同時期にドイツが舞台となったニュルンベルク裁判では同国の法曹関係者の大半が裁判に(裁く側にも)協力しているが、極東国際軍事裁判では日本の法曹関係者の裁判への協力は行われていない。なぜ協力が行われなかったかについては日本の法曹関係者の関与が広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下をめぐる処理を複雑化し、連合国、特にアメリカ合衆国にとっては望ましくない影響をもたらす可能性があったからだとも考えられている。

更にドイツでは軍人ではなくナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)員の政治家および官僚を中心として戦争が進められたとした「共同謀議」の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年から1945年まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされた。しかし彼らの中には互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれており、また日本では一連の戦争中でも陸海軍間の対立など、常に政治的な確執が内在していた。このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。

このため日本ではドイツにおけるニュルンベルク裁判に対する批判はあまり聞かれないが、日本における極東国際軍事裁判については戦勝国の報復という意見や日本側の非協力の結果という意見など批判的意見が多く見られる。なお、極東国際軍事裁判の評価をめぐっては研究が続けられており、今のところ結論が確定するには至っていないが、否定的見方が多くなっている。

具体的な研究としては裁判の公平性に関して次のような論説がある。

  • 審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である紫禁城の黄昏すら却下された。
  • 上記に反論 - 検察側の提出した証拠と弁護側の提出した証拠のうち、却下されたものも採用されたものもほぼ同数であり、起訴された人が審理において格別不利に扱いを受けたというわけではない(粟屋憲太郎ら)。
  • 判決文には証明力がない、関連性が無いなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。
  • 条例で定めているはずの日本語通訳が弁護人陳述中、途中で打切られることがあり速記録にさえ残らなかった。
  • また、日本語通訳の能力不足から、通訳が適切に行われないことも多かった。

被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している。また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している。

判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝敖判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のI・M・ザリヤノフ判事とフランスのアンリー・ベルナール判事が法廷の公用語日本語英語)を使用できなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声が存在している。

イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事態の後で作った法で裁くことはできないとし「全員無罪」としたことで知られている。

この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。パールは1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。

また、フランスアンリー・ベルナール判事は裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。

オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、イギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。

A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。

ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされ、裁判に不備があったという意見が大部分であったといわれている。}}なお、イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2ヶ月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。

イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。

また、当時の日本統治を担当し、裁判の事実上の主催者ともいえた連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、後にハリー・S・トルーマンアメリカ合衆国大統領と会談した際に、「戦犯裁判は、戦争防止のためには役に立たない」と述べたといわれる。

GHQは日本に於(お)いてプレスコードなどを発して徹底した検閲言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したとされる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた。

なお、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第11条においては「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められているが、これは講和条約の締結により占領政策の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた戦犯法廷の判決が無効化され、裁判が終結していない場合は即刻釈放しなければならなくなることを回避するために設けられた条項である。

しかし、この条項の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の立場を取っている(「裁判の受諾」という文節の本文は『Japan accepts the judgments』であり、判決主文に基づいた刑を意味する『sentence』とは明確に区別されている。また「judgment」は「判決」と訳されることが多いが、沖縄返還協定のように「裁判」と訳されることもある)。

日本国内においては、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は4000万人に達したと言われ、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。

なお、現在は、日本と友好国であるアメリカ下院は現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005年7月14日決議。しばしば誤解されているが極東軍事裁判では”人道に対する罪”で起訴された被告はいないため、決議における「極東国際軍事裁判の決定」と「“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決」は別の対象をさしている)。

判事[編集]

  • ウィリアム・F・ウエップ(オーストラリア連邦派遣) - 裁判長
  • マイロン・C・クレマー(アメリカ合衆国派遣)
  • パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)
  • I・M・ザリヤノフ(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)- 陸大法学部長
  • アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣)
  • 梅汝敖(中華民国派遣) - 法律家(本国では裁判官の職を持つ者ではなかった)。
  • ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣) - 刑法国際法の専門家
  • E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣)
  • エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣)
  • D・ジャラニラ(フィリピン共和国派遣)
  • ラダ・ビノード・パール(イギリス領インド帝国派遣) - 東京裁判当時はヒンズー法学者で、著書に『ベーダ時代のヒンズー法哲学』『インド長子相続法』『出訴期限法』などがあり、判事の中で唯一、国際法の学位を有していた。東京裁判以降、国際連合国際法委員や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した。

検察官[編集]

  • ジョセフ・キーナン(アメリカ合衆国派遣) - 首席検察官
  • 向哲濬(中華民国派遣)
  • アーサー・S・コミンズ・カー(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣) - 次席検察官
  • S・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)
  • アラン・ジェームス・マンスフィールド(オーストラリア連邦派遣)
  • ヘンリー・グラタン・ノーラン(カナダ派遣)
  • ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)
  • W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)
  • ロナルド・ヘンリー・クイリアム(ニュージーランド派遣)
  • ゴビンダ・メノン(イギリス領インド帝国派遣)
  • ペドロ・ロペス(フィリピン共和国派遣)

被告人[編集]


判決[編集]

  • 絞首刑 7人
  • 終身刑 16人
  • 有期禁固刑 2人
  • 判決前に病死 2人
  • 訴追免除 1人

この裁判を扱った主な作品[編集]

小説[編集]

映画[編集]

テレビ[編集]

  • 『私は貝になりたい』(1958年 TBSの前身『ラジオ東京テレビ』で放映されたテレビドラマ
  • 『日本の戦後 審判の日 極東国際軍事裁判』(1977年)
  • 山河燃ゆ』(1984年 山崎豊子『二つの祖国』を原作にしたNHK大河ドラマ

脚注[編集]

  1. “戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織等の論を呼起すの虞れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。”

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]