畠山鈴香

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畠山 鈴香
殺された娘の彩香ちゃんと畠山 鈴香

畠山 鈴香(はたけやま すずか、1973年2月2日 - )とは、秋田児童連続殺害事件の犯人である。秋田県立二ツ井高等学校卒業。無期懲役刑に服している。3人兄弟の長子として出産した。(9歳年下の弟と25歳年下の妹がいる)。

秋田児童連続殺害事件は、2006年平成18年)、秋田県山本郡藤里町畠山鈴香が自分の娘・彩香ちゃん(享年9歳)と、その友達の米山豪憲君(享年7歳)を殺害した事件。

概要[編集]

2006年(平成18年)4月10日に小学校4年生の畠山 彩香ちゃん(当時9歳)が、自宅から10キロ離れた川で水死体となって発見された事案で、秋田県警では当初事故と判断していたが、5月に彩香ちゃんの2軒隣の米山 豪憲君(当時7歳)が5月18日午後に約12km離れた川岸で遺体で発見された。

1ヶ月の間に二人も亡くなっていることに疑問を抱き再捜査を始めた。そして、6月4日に彩香ちゃんの母親・畠山鈴香を事件の容疑者として逮捕した。

秋田県警は、初動捜査の不手際を完全に否定していたが、畠山鈴香のウソをうのみにし、当初は80人体制だった捜査員を20人にまで減らしていた。これについては漆間巌警察庁長官7月20日の定例会見の中で、「聞き込みなどが本当に十分だったのか、もう1度検証する必要がある」と秋田県警に苦言を呈している。

また、この事件では、畠山鈴香(当時33歳)が当初「長女を事故だと断定した警察に不信感がある」などとしており、自らで長女の消息を求めるビラなどを付近に配布するなどの行動を起こしている。ところがビラを配るなどの畠山鈴香の行動はいささか不可解だという見解が、ニュースワイドショーなどで大きく取り上げられることになった。

一方、「畠山鈴香が事故ではなく事件にしたがったのは、犯罪被害者給付金目当てでは?」ともささやかれている。畠山鈴香は、供述内容をコロコロと変えたり、明らかに不自然な供述を繰り返しなどしている。

経緯[編集]

2006年[編集]

畠山 彩香ちゃん
米山 豪憲君
  • 4月9日
秋田県藤里町の小学4年畠山 彩香ちゃん(当時9歳)が行方不明となった。
  • 4月10日
行方不明となっていた小学4年畠山 彩香ちゃんが自宅から南へ約10km離れた能代市内の川で水死体として発見された。
  • 5月17日
午後3時、被害に遭った米山 豪憲君の友人が、約束の時間になっても、約束場所に現れないことが心配となり、自宅に行ったところ、米山 豪憲君が直前に下校途中に別れてから、自宅に帰っていないことが判明。
午後5時過ぎ、家族が秋田県警に捜索願を提出。
  • 5月18日
午後3時、能代市の市道脇で、ジョギング中の男性が遺体を発見。秋田県警では、遺体の状況から殺人事件と断定し、捜査本部を設置。司法解剖の結果、米山 豪憲君の死因は首を絞められたことによる窒息死と判明。
  • 6月5日
捜査本部は、33歳の畠山鈴香(4月に水死した畠山彩香ちゃんの母親)を、米山 豪憲君の死体遺棄の疑いで逮捕。HS容疑者の自宅から血痕や、米山 豪憲君のものとみられる体液も分析の結果発見され、有力な物証とみている。
  • 6月6日
畠山鈴香が米山 豪憲君の殺害をほのめかす供述を始める。
  • 6月25日
畠山鈴香を米山 豪憲君殺害容疑で再逮捕。
  • 7月14日
畠山鈴香は、4月に起こった畠山彩香ちゃんの水死事件に関して、「一緒に魚を見に行った際、橋から転落した。気が動転して助けを呼ばなかった」と供述。これまでの「長女(畠山彩香ちゃん)は『(米山 豪憲君に)人形を見せに行ってくる』と言ったきり戻ってこない」という供述を自らが覆す。
  • 7月15日
畠山鈴香が「長女を橋からつき落とした」と供述。
  • 7月18日
畠山鈴香を畠山彩香ちゃん殺害容疑で再逮捕。同日、秋田地方検察庁は米山 豪憲君殺害容疑で畠山鈴香を起訴
  • 8月9日
畠山鈴香を畠山彩香ちゃん殺害容疑で追起訴。前日、畠山鈴香は「なんで私が犯人なの?」などと今までの自身の供述を自身で真っ向否定する供述をしている。

2007年[編集]

  • 9月12日
殺人と死体遺棄の罪に問われた畠山鈴香の初公判が秋田地方裁判所であった。畠山鈴香は、米山 豪憲君殺害は認めたものの、長女畠山彩香ちゃんの殺意を否認。また米山 豪憲君殺害についても、当時自分の精神状態が正常だったかどうか自信がないと述べる。

畠山鈴香被告「極刑にしてほしい」(2007年10月)[編集]

秋田県藤里町で2006年4、5月に起きた連続児童殺害事件で、殺人と死体遺棄の罪に問われた畠山鈴香(34)の第6回公判が10月31日秋田地裁(藤井俊郎裁判長)で開かれ、前回に引き続き、弁護側の被告人質問があった。

畠山は「(殺害した米山)豪憲君の遺族にどう償うのか」との質問に対し「米山さんの望む通りの刑を望みます」とし、「命をもって償うということか」と聞かれると「はい」と答え、その後の質問にも「極刑にしてほしい」と述べた。

畠山は逮捕後、拘置所内で、「取調室からたばこを持ち出して4本食べた。致死量は3本と知っていた。吐き気がして、2、3日口がしびれただけだった」と述べた。また、タオルで自分の首を絞めたり、鏡を割って腕を傷つけたほか、ボディーソープを容器の3分の1ほど飲む--などの行為を2007年8月まで続けたことを明らかにした。

2008年[編集]

  • 3月19日
畠山鈴香の判決公判が秋田地裁であり、藤井俊郎裁判長は被告に無期懲役の判決を言い渡した。判決要旨としては、「2人の殺害は殺意を持って行われたが、計画性はない」「米山 豪憲君殺害時の刑事責任能力は認められる」というもの。弁護側は控訴し、検察側も控訴する。

畠山鈴香無期懲役判決―「大切なお子さんを奪ってしまい申し訳ない」土下座して謝罪も控訴へ[編集]

2006年におきた、秋田県藤里町の連続児童殺害事件で、死刑を求刑されていた畠山鈴香被告に、無期懲役の判決が下された。

閉廷間際、被告は、殺害された米山豪憲君の両親に向かい、床に膝をついて土下座、泣きながら謝罪の言葉を述べた。弁護側は、この判決を不服として、即日控訴した。

秋田県藤里町の連続児童殺害事件で、殺人などの罪に問われた畠山鈴香(35)の判決公判が19日、秋田地裁で開かれた。

藤井俊郎裁判長は「凶悪、卑劣な犯行で、刑事責任は重大」とし、検察側の死刑の求刑に対し、無期懲役を言い渡した。争点となったのは、殺意の有無と被告の殺害時の責任能力の判定。

判決は、被告の当時9才の長女彩香ちゃんへの殺意は認めたが、米山豪憲君(当時7才)事件とともに、計画性は否定、極刑を回避した形。藤井裁判長は、「死刑の適用も十分考えられるが、酌量すべき点も少なからず認められ、躊躇を覚えざるを得ない」と述べたが、「内省が表面的にとどまる」との判断を加え、仮釈放は慎重にするよう求めた。

判決では、2件の事件ともに計画性を否定。

彩香ちゃんが駄々に被告はいらだち、愛せずに悩み、新しい生活への足かせと感じていた彩香ちゃんが消えてくれるのではと思い、とっさに橋から落としたとした。また、彩香ちゃんを欄干に乗せた後、怖がって抱き付かれるまで突き落としていないことから、積極的な殺意があったとはいえないとした。

豪憲君については、彩香ちゃんの死は事件だとする自分の主張に目を向けさせるためのとっさの殺害と判断。計画性はなかったとし、彩香ちゃん事件への疑いの目をそらすためとの検察側主張は退けた。

検察側は「真摯な反省は期待できず、矯正は不可能」として死刑を求刑していた。初公判で被告は「1年半前は嘘つき、卑怯でした。どう変わったか見てほしい」「極刑にしてほしい」と述べたこともあったが、審理の間、自身に都合の悪い質問には黙秘を繰り返し、公判中に書いた日記には「罪悪感はほとんどない」との記述もみられた。

弁護側は「更生の可能性は失われていない」として有期の懲役刑を求めていた。彩香ちゃんの事件について、橋の欄干で「お母さん、怖い」と急に抱き付いてきた彩香ちゃんを払いのけたための転落として、過失を主張。ショックで転落時の記憶を失っていたとし、自白は「検察官の強力な誘導」と反論した。豪憲君殺害についても、娘を亡くした喪失感による衝動的な殺害として偶発性を訴え、事件当時は心神耗弱状態だったとしていた。

弁護側はこの判決を不服として、即日控訴した。

被告は、閉廷間際、裁判長に突然「ひとついいですか」と声を掛け、米山豪憲君の両親への謝罪を申し出た。

傍聴席を向き、サンダルをぬいで膝をついて土下座、「大事なお子さんを奪ってしまって申し訳ありませんでした」と述べ、泣きながら頭を下げた。豪憲君の父、勝弘さんは表情を変えず、母真智子さんは目を閉じて涙をこらえていた。   この事件の裁判は、迅速化を図って、公判前整理手続きが適用された。証拠が膨大だったことなどから、手続きは長期化し、最後の起訴から初公判まで1年以上がかかった。しかし、公判開始後は月に数回、集中的に開廷、並行して被告の精神鑑定が実施されるなど、異例の態勢がとられ、2007年9月の初公判から13回で結審、半年で判決を迎えた。

殺意や責任能力以前に、なぜ起きたのかもあいまいな、謎の多いこの事件。

幼少時代に、被告が極端で陰湿ないじめにあっていたことなどが、法廷で明らかにされたにも関わらず、よく言われる「いじめによる“心の闇”が原因で…」というような論調を、今回はあまり多くは見かけない。死刑は厳しすぎるという声が高まらない背景には、いじめに関しては同情しても、それとは何の関係もない幼児を、自己の気分と衝動だけで、あっさりと殺害したことは、やはり理解しがたく、残酷で浅はかな犯行は許せるものではないからだろう。

二転三転する主張、不安定な精神状態を露呈する様子は、演技なのか、それとも気分のムラか。被告の姿は、まだ見えてこない。事件は、高等裁判所で引き続き争われることとなる。

判決要旨[編集]

長女彩香ちゃん殺害

2006年4月9日午後6時40分過ぎごろ、大沢橋の欄干のすき間から川面を見せ、暗くて魚が見えないことを納得させようとしたが、彩香ちゃんが「見たい見たい」と言って帰ろうとしなかったため、急激にイライラした感情を高め、とっさに突き落とした。

橋の欄干という極めて危険な場所に我が子を座らせ、助けを求める行為に対し、拒むかのように押し返して転落させ、転落後に救護活動を一切行っていない状況などから、殺意に基づき突き落としたという事実を強く推認することができる。

留置場で「検事さんのネクタイが4日間同じで、笑いをこらえるのに必死だった」などと話しており、捜査段階で殺意を認めた自白調書に任意性・信用性を認めることができる。

米山豪憲君の殺害

相当の信用性を認めることができる捜査段階の精神鑑定(苗村鑑定)によると、彩香ちゃん殺害後、急速に記憶を抑圧し始め、2006年4月11日ごろには彩香ちゃんを欄干から落下させた記憶は、すぐには想起されない状態になっていた。

公判段階の精神鑑定(西脇鑑定)によれば、彩香ちゃん殺害直後に重篤な健忘が生じたとのことであり、被告の公判供述に沿う内容になっている。しかし、西脇鑑定は母親による乳幼児殺傷事案のほとんどが無理心中であるとの前提に立ち、被告が複数回にわたって自殺を決行しているとの事実認識に基づいているところ、これらの認識は直ちに首肯しうるものとは言えず、公判供述と西脇鑑定は採用することができない。

記憶の抑圧それ自体が行為の是非を弁別し、行動制御能力に影響を及ぼすとは考えられず、犯行当時の完全責任能力を認めるのが相当である。

「被告が彩香ちゃんを殺害したのではないか」という嫌疑をそらすべく、2006年5月17日午後3時過ぎ、豪憲君に「彩香の思い出に何かもらってほしいんだけれども」と声をかけた時点で殺害を決意していたと疑うことも不可能ではない。しかし、死体処分の準備をした形跡はなく、被告は捜査・公判を通じ「殺害しようと決意したのは、豪憲君を自宅に誘い入れた後」と供述している。

被告は豪憲君の姿を間近で見ているうちに「彩香はいないのに、なんでこんなに元気なのか」と思い「彩香ちゃんの死が事故ではなく(他人が起こした)事件であるとの主張に目を向けさせる絶好の機会は今しかない」との考えがわき上がり、とっさに首に腰ひもを巻き付け窒息死させた。

量刑の理由

幼い児童らの無警戒につけ込んでおり、各犯行が凶悪かつ卑劣であることは論をまたない。

被告は彩香ちゃん出生直後から「愛したくても愛せない」といった悩みを長年抱き、生活を変えようにも彩香ちゃんが足かせになっているなどと感じていた。父親の介護に疲れ逃れたいと夢想する中、彩香ちゃんが駄々をこねたのを契機に疎ましさが爆発し「彩香ちゃんを排除すれば未来が開けるのではないか」と、とっさに考え殺害に至った。母親として果たすべき責任を放棄したいという動機は、極めて身勝手かつ短絡的である。

「怖い」と言いながら抱きつくように助けを求めてきた我が子を突き落とした犯行態様は非道極まりない。彩香ちゃんは可能性に満ちていたはずの未来をわずか9歳で奪われ、母親に愛されようとけなげに振る舞っていた彩香ちゃんの「母親に裏切られた」という衝撃や絶望感の深さを考えると哀れというほかない。

「自分が彩香ちゃんを殺した」という現実から目を背けたいという身勝手極まりない思いから豪憲君殺害に至った経緯に酌むべき事情はみじんもない。無抵抗の豪憲君の首を数分間力いっぱい絞め、息を吹き返すかのような様子を見せるや、さらに絞め続け確実に殺害しており、強固な殺意に基づく卑劣かつ残虐で執拗かつ冷酷な犯行である。

豪憲君は家族の愛情を一身に受けて健やかに育っていたのに、わずか7歳で生涯を終えさせられ、無限の可能性のすべてを奪われた。豪憲君が受けた恐怖、絶望、悲しみ、苦しみは想像を絶し言葉では言い尽くせない。遺族の怒りや悲しみは限りなく深く、極刑を望むのは自然である。(鑑定人への言動から)被告の反省には疑問の念を持たざるを得ない。

しかし、彩香ちゃん殺害は父親の介護や母子家庭であるがゆえの不安、思うように就職できない不満など、必ずしもすべてを被告の責めに帰すことのできない事情により衝動的・突発的に敢行された。豪憲君殺害当時、被告は自らが彩香ちゃんを殺害した事実を明確に認識していなかったのも事実であり、記憶を保ちつつ連続殺人を行った場合に比べ、悪質性は多少なりとも減じられる。計画性も認められない。学校内の盗みにより高校で停学処分を受けているが前科前歴は無く、矯正教育を試みる余地がある。

これらを総合考慮し、多くの裁判例で示された量刑動向も踏まえると、死刑を選択するほかないと断じることにはちゅうちょを覚えざるを得ず、贖罪のため全生涯をささげることを強く求める。

なお仮釈放に当たっては、刑事責任が重大であることに加え、内省が表面的にとどまるという性格特性の改善が容易でないことにも十分留意されることを希望する。

2009年[編集]

  • 3月25日
控訴審判決が仙台高等裁判所秋田支部であり、竹花俊徳裁判長は地裁判決を支持し、弁護・検察双方の控訴審を棄却。弁護側のみ上告。
  • 5月19日
弁護側が上告を取り下げたため、地裁が下した無期懲役判決が確定。

畠山鈴香の生涯[編集]

「ばい菌」と呼ばれ使い走り[編集]

初公判以来初めて、自らの口で事件の経緯を語った畠山鈴香(34)。秋田地裁(藤井俊郎裁判長)で開かれた第5回公判で、弁護側の質問に答え、畠山は父の暴力や学校でのいじめを詳述。高校卒業後、栃木県の温泉旅館で働いたこと、結婚と離婚などを語り、事件に至る半生が浮き彫りになった。また、長女彩香ちゃんへの虐待は否定、母として愛情をもって育てたと述べた。

虐待といじめ[編集]

小学校5年の12月末になると父が振るう暴力の対象となり、中学3年生の12月に入るとエスカレート。殴るける、髪の毛を引っ張り引きずり回されるなどしたという。弁護側は初公判の冒頭陳述で「幼少時からの虐待がかい離性障害を生む原因になった」と主張している。

また「心霊写真」「ばい菌」などと呼ばれるなど、小学校から始まったいじめの被害を淡々と述べた。友達がいないことを苦に、万引きした文房具を配って気を引こうともした。中学時代はほとんど無視され、高校時代はリーダー的存在の使い走りになっていじめに遭うのを避ける工夫をしたという。

高校卒業後は、父親の暴力から逃れたい思いもあり、友人を通じて知り合った男性と駆け落ちのように栃木県へ。温泉旅館で住み込みで働いた。仕事仲間との飲み会やバーベキューは楽しい思い出だという。仲居やコンパニオンとして働き、畠山の実家がある二ツ井町(現能代市二ツ井町)に戻り、この男性と結婚した。

秋田県立二ツ井高校の卒業アルバム[編集]

卒業文集

鈴香の

1年間、長い人は3年間どうもでした。
すぐには仕事をやめてこないけれど二ツ井に帰ってきた時は遊んでやってください!
帰ってきたらまっすぐビューホテルの???の???のでよろしく!

という書き込みに対し、同級生の寄せ書きは

「会ったら元カメラマンの男を殺す!」

「あと二度と会うことはないだろう。じゃーな」

「ひゃ~な。帰ってくんなョ。」

「bye2 一生会わないでしょう」

「bye2 目の前に来んな!!」

「やっと離れられる。3年間はちょっと…」

「秋田から永久追放」

「仕事やめで秋田さかえってくるなョ。」

「秋田の土は二度とふむんじゃねえぞ」

「もうこの秋田には帰ってくるなョ」

「いつもの声で男ひっかけんなよ!」

「あれッ!? おめいだったった~(お前いたのか)」

「元気でな。ビューさは来るなよ。(ビューには来るなよ。)」

「顔を出さないよーに」

「山奥で一生過ごすんだ♪」

「はたらいてもあまされるなよ!(戻されるなよ)」

「戦争に早く行け」

「いままでいじめられた分、強くなったべ。俺達に感謝しなさい。」

教師が何の疑問も抱かず、この寄せ書きをアルバムに印刷配賦した秋田県立二ツ井高校の公式HP

結婚と離婚[編集]

元夫とは口論が絶えずほどなく離婚。元夫は証人尋問で「(畠山被告は)家事をしなかった」「(栃木時代は)夕食は車で約30分かかるコンビニまで買いに行った」と証言していたが、被告は29日の公判で「洗濯は私がしていた」「夕食は肉じゃがなどを作り置きしていた。コンビニへ行ったことはない」など、家事はしていたと反論。

「(元夫が口論の末)鋲(びょう)付きのジャンパーを彩香ちゃんに投げつけたので離婚を決意した」と述べた。元夫はこれまでの公判で「当時は(そのジャンパーを)持っていなかった」と証言している。

一家総破産!! 米山豪憲君殺害の畠山鈴香の哀れな人生。そして、悲惨な彩香ちゃんの9年の生涯[編集]

畠山鈴香は、パチンコと病的な夜遊びの挙句、数百万円の借金を抱えて自己破産していた。しかし、鈴香の実家も同じだった。ダンプの運送会社を経営していた実家も、経営に行き詰って破産していた。

「実は、鈴香も生活保護を受けていましたが、実家も生活保護を受けていました。鈴香は、能代の高校卒業後、栃木県内の鬼怒川温泉にあるホテルで仲居として就職したんですが、2年で辞めて秋田に戻ったんです。21歳の時、実家の経営していた運送会社の1歳年下のトラック運転手と付き合うようになり、結婚して、21歳の時に彩香ちゃんを生んだ。しかし、家事は一切やらず、パチンコ三昧の毎日で借金ばかり作っていたことにダンナも愛想をつかして、家を出て行ってしまったといいます」。

彩香ちゃんが生まれて半年後に離婚した。以来、聞こえはいいが、鈴香は女手一つで彩香ちゃんを育ててきた。離婚後は、スーパーやパチンコ店、さらにはスナックでホステスをやったかと思えば、宴会のコンパニオン、そして生命保険の営業外交員など、職を転々としていった。

「保険外交員の時は、色仕掛けで寝取って契約を取っていたといいます。朝日ヶ丘団地でも色仕掛けで複数の男性に営業をかけていたようです」。

しかし、パチンコ癖は治らず、さらに夜遊びも重なって自己破産した。町営の朝日ヶ丘団地の家賃はもちろん、公共料金も滞納する始末で「家庭生活はメチャクチャだった。彩香ちゃんは、家ではカップラーメンとかろくなものを食べさせてもらえなかった。だから、学校の給食の時間が一番の楽しみだったといいます」。

昨年の暮れまで能代市内のデリヘルで働いていた。馴染みの客は自宅に呼んでいた。

「客の男を自宅に連れ込むときは、彩香ちゃんを外に追い出していました。真冬の寒い夜に家に入れてもらえないんですから悲惨です。見かねた近所の人が家に上げて、食事をさせてやったこともたびたびあったそうです」。

殺害された豪憲君の家は、遊び場だった。学校が終わると、みんな豪憲君の家に集まって遊んでいた。彩香ちゃんと豪憲君は、その中でも一番仲がよかったという。

とにかく、鈴香の育児放棄、虐待は近所でも知られていた。狭い住宅街のはずだが、どこか空しさが残る。彩香ちゃんは、汚れたままの衣服で学校に通っていたという話であるが、学校の先生も、見てみない振りをしていたのか? もはやコミュニティーも崩壊していたのであろうか?

「地元の噂では、豪憲君のお父さんも鈴香と関係にあったと言われてます。豪憲君のお父さんは、コンピュータのプログラマーで昼間は自宅にいることが多かったといいます。だから、子供たちも集まってきやすかったんでしょうが、鈴香も自宅を行き来できたのかもしれませんね」。

しかし、この噂は、今や朝日ヶ丘団地では知らない人がいないという。現時点では、鈴香1人のために、この小さな団地はメチャクチャだ。真相を解明して、事件が解決するまでには、豪憲君はもちろんだが、このままでは水死した彩香ちゃんも浮かばれない。

娘への虐待否定[編集]

離婚後、彩香ちゃんと2人で十和田湖に出掛け、遊覧船を見て「(彩香ちゃんが)『これに乗るの』とはしゃいでいた」などの思い出を披露。仲良し親子ぶりをアピールした。

複数の周辺住民による「離婚後に交際男性が自宅に来た時、彩香ちゃんが戸外に出されていた」との証言について「ありません」と否定。

「朝食は買い置きのパンなどを食べ、夕食は両親の実家で食べさせていた」「風呂に入るのを嫌がることが多かったが、実家で弟や母親と入っていた」と育児放棄も否定した。服の汚れについても「(彩香ちゃんは)気に入った服を何回も着たがったので洗えなかった」などとした。

2003年からは精神科に通院し、2005年には処方された薬を一度に飲んで自殺しようとし未遂に終わったという。

検察側が冒頭陳述で、登下校中の子供の列に車が突っ込み死亡した事故に絡み、友人に「彩香があの中にいれば良かったのに」とメールしたことを明らかにしたが、弁護人が「内心、子供の死を願ったことは」と質問すると「ない、あれば口にしている」と彩香ちゃんへの殺意を否定した。

再捜査要請の経緯[編集]

彩香ちゃんの遺体が発見された翌日、畠山は能代署員から「彩香ちゃんが落ちた可能性のある場所の一つ」として、自宅の向かいの藤琴川の河原に案内された。案内した2人の署員から「滑ったとみられる跡があり、靴の裏の砂利の成分が似ている」「事件より事故の方が気の持ちようが違うのでは」と言われ「(彩香ちゃんの)単独事故で終わらせるのではないか」と不信感を募らせたという。

「途中で彩香ちゃんを落としてしまったことを思い出すことはあったか」と弁護人に問われると、畠山被告は「いいえ」と答えた。

報道などをめぐる問題[編集]

この事件では、畠山鈴香が身を寄せていた実家にメディアが殺到し(メディアスクラム)、一部メディアは畠山鈴香が外出する際に追走したりし、周辺住民の間からもメディアの取材に対する苦情やトラブルが相次いで起こった。こうした事態を重く見たBPO(放送倫理・番組向上機構)は、5月24日、放送各社に「節度をもって取材に当たる」よう要望する事態にまで発展。

このメディアスクラムは、1994年(平成6年)に起こった松本サリン事件1998年(平成10年)に和歌山毒物カレー事件でも問題になったが今回の事件ではこれらの教訓が全く生かされなかったとの指摘も出ている。

また、畠山鈴香が逮捕される前から畠山鈴香に関するプライバシーが、週刊誌を中心にセンセーショナルに報道された。これについてある週刊誌の記者は、東京新聞の取材に対し「この事件に対する世間の関心は非常に高い。いろいろな噂がある中で何が真実かを確認するには、本人に取材せざるを得ない。やむを得ないのではないか」(2006年6月8日付東京新聞)と報道の意義を強調している。

しかし、畠山鈴香が特定・逮捕されていない段階でこうした報道がなされたことに対しては「逮捕されていない人が、逮捕されたかのような扱いで、推定無罪という考え方がどこかへ飛んでいってしまっている」(松本サリン事件報道被害を受けた河野義行2006年6月8日付東京新聞)と言った批判も出ている。結果的に翌年の香川・坂出3人殺害事件でこの危惧は現実のものとなった。

一方、産経新聞6月6日付けの社説でこうした過熱取材を自己批判する社説を掲載したり、東京新聞6月8日付けの紙面でメディアスクラムを検証するなど報道する側からもこうした過熱取材に対する疑問が提起された。

また、畠山鈴香の高校生時代の卒業アルバムがテレビで公開され、畠山鈴香が高校時代にいじめに遭っていたとも取れる寄せ書きが卒業アルバムに記載されており、畠山鈴香の母校・秋田県立二ツ井高校や同級生に対して非難が殺到した。ちなみにその卒業アルバムには畠山鈴香の将来として「自殺・詐欺・強盗・全国指名手配・変人大賞・女優・殺人・野生化」と書かれていた。

だが、この事件は「狭い田舎の町で短期間で2人もの子供が亡くなる」という特異性や、地元住民などはもとから「長女の死は事故ではない」と考えていた。報道各社は過熱取材を冷まそうとしていたが、報道各社のサツ回りの中で「実は長女の母親が捜査線上に浮かんでいる」という情報を警察関係者から聞き、ある1社が抜け駆けて紙上で「長女の母親犯人説」を大々的に掲載した。

なお、このことについて警察不祥事に関係した著書の多い黒木昭雄は著書で警察の意図的な情報リークの可能性を指摘している。畠山鈴香の証言に依拠するところが多く娘に関しては証拠不足なことや、畠山鈴香が嘘つきだと宣伝する事で捜査怠慢をごまかすような側面があったためである。

関連項目[編集]