番町

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番町(ばんちょう)は、東京都千代田区の一番町から六番町までの総称である。江戸時代は小禄の旗本、大番衆の屋敷地であったが。明治以降,高級住宅地となった。

歴史[編集]

徳川家康が江戸城の西の守りを固めるため、番町一帯に大番組(旗本のうち、将軍を直接警護する部隊)に属する旗本たちを住まわせたのが地名の由来である。大番組が一番組から六番組まであったことから、町名も一番町から六番町までとなっている。往時は一番町がさらに堀端一番町、新道一番町などと分かれており、後世、それらをまとめたため、江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の境は一致していない。番号の順に町が並んでいないのはこのためである。江戸時代、その分かりにくさは有名で、番町に居て番町知らずなど、数多くの川柳が生まれている。 名所としては、イギリス大使館、日本テレビ麹町分室、大妻女子大学、東京家政学院大学、また、盲目の学者塙保己一が設立した和学講談所跡がある。

最も皇居寄りにあるのが一番町である。多くの武家屋敷があり、また、麹町大通りと平行して武士の訓練所や防災用の日除け地があった。訓練所帰りの武士達の腹を満たした「おてつ牡丹餅」は、女主人の美貌と味で有名。明治に入り、都心に近く、住環境が良いため、国木田独歩武者小路実篤斉藤秀雄滝廉太郎等多くの文化人がこの一帯に住んでいた。国木田独歩の妻治子の思い出には「生まれた家は、旗本の邸跡で大きな家でした。祖父はお蔵奉行で、派手な生活で、家の池で海老などを釣ったりしました」とある。

三番町に住んでいた永井荷風(明治12~昭和34年)は、「日和下駄」で麹町の思い出を描いている。「市中を歩む時、いつも江戸地図を携帯する。この方が昔と今を比較することができる。最近できた陸地測量図は精緻正確だが昔の風景を想像できない」。

四番町は岡本綺堂作の「番町皿屋敷」の舞台である。旗本青山播磨の腰元お菊が髪をふり乱し、帯を引きずって逃げたと伝説のある「帯坂」がある。

六番町は麹町大通り沿いの町人地で、南側には尾張藩中屋敷があり、北側奥には家老で犬山城主であった、成瀬隼人正の上屋敷があった。


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