白洲次郎

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サンフランシスコ講和会議へ向かう機上の白洲次郎 右は吉田茂首相

白洲 次郎(しらす じろう、明治35年(1902年2月17日 - 昭和60年(1985年11月28日)は兵庫県芦屋市出身の日本の実業家である。終戦直後のGHQ支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、貿易庁通産省)長官等をつとめる。独立復興後は、東北電力会長等を歴任した。夫人は、作家・随筆家の白洲正子

プロフィール[編集]

生い立ち[編集]

明治35年(1902年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。後に兵庫県川邉郡伊丹町[1](現・伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居。

大正8年(1919年)、旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)を卒業。神戸一中時代はサッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。同級生には後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。

イギリス留学[編集]

神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティベントレーを乗り回す。7代目ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称:ロビン)と終生の友となる。ロビンとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。

大正14年(1925年)、ケンブリッジ大学を卒業。

帰国[編集]

昭和3年(1928年)、神戸市神戸区(現・中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされる。

昭和4年(1929年)、英語新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた[2]。結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役(昭和12年(1937年)を歴任する。この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子文隆のしつけがかりを押しつけられていたこともあった。

「ヨハンセン・グループ」[編集]

昭和15年(1940年)、来るべき日英・米戦争、それに伴う食料不足を予期し[3]事業から手を引き、東京都南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・町田市能ヶ谷町)の古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名付けて隠棲。カントリー・ジェントルマンを自称する。農業に励む日々を送る一方で吉田を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走しここから次郎の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。同年に、長女・桂子がうまれる。

終戦連絡中央事務局[編集]

昭和20年(1945年)、東久邇宮内閣外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。ここから、次郎の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を向こうに回した戦いの火蓋が切られる。次郎は、GHQ/SCAPに対して当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、イギリス仕込みの流暢な英語(次郎は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[4]

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが次郎に申し訳ないと謝り、ちゃんとテーブルを用意させた。GHQ/SCAP民政局長コートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した(米語に対する最大限の皮肉、後述)などGHQ / SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い。

憲法改正[編集]

同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。昭和21年(1946年2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQ/SCAPの拒否にあった際に、GHQ/SCAP草案(マッカーサー案)を提示されている。次郎は2月15日にGHQ/SCAP草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡[5]を出し時間を得ようとするが、これはGHQ/SCAPから不必要な遅滞は許されないと言明される。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。昭和22年(1947年6月18日、終連次長を退任する。

貿易庁初代長官[編集]

昭和23年(1948年12月1日商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。なお就任にあたり優越を目的とした企業や関係者から贈り物が届いたのを知ると、知らせた者を一喝し受け取りを拒否したといわれる。少資源国日本が生き残る道として経済復興には産業政策を輸出主導型へ転換させる必要があるとし、商工省を改組し通商産業省設立の中心的役割を果たした。それをなし遂げる政治力は「白洲三百人力」と言われた。

昭和25年(1950年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

昭和26年(1951年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島琉球諸島沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年11月19日から昭和29年(1954年12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。

実業界へ復帰[編集]

既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた次郎は、昭和26年(1951年)5月に東北電力会長に就任する。就任の同年福島県只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから昭和34年(1959年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現・マルハ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。次郎はケンブリッジ大学時代に築いた人脈を利用して様々な英国企業の個人エージェントを勤めており、ロンドンに設けた個人口座に成功報酬ベースでコミッションを振り込ませていた。そして時々英国に出張してはそのカネを引き下ろしては日本に密かに持ち帰っていた(次郎の「出張」の大半は外交官扱いなので、英国での稼ぎは外交官特権により合法的に持ち帰る事が可能であった。そして当時の為替レートからすると、英国で稼いだ金額を日本円に換算すると非常な価値があった)。戦後も彼は浮世離れした生活を営んでいたが、それを可能にしたのはこうしたカネの流れがあったからこそなのである。

ゴルフ[編集]

次郎は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。白洲がゴルフを始めたのは、本人によると14、5歳の時からでイギリス留学中はゴルフはしなかったが帰国してから熱中した。昭和51年(1976年)、軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。メンバーは皆平等にビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく「プレイ・ファスト」を徹底させた。1982年(昭和57年)、同倶楽部理事長に就任する。

親友との再会[編集]

親友ロビンとは互いに祖国が戦争状態に入るという不幸な時期を経て昭和27年(1952年)、ロンドンで再会を果たした。最後にロビンと会ったのは昭和55年(1980年)のことであった。

死去[編集]

80歳まで1968年ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じていたが、昭和60年(1985年)11月に正子夫人と伊賀京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。(1985-1902)+((11-2)*100+(28-17)>=0)-1歳没。墓所は兵庫県三田市心月院である。夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。そして次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。

オイリー・ボーイ[編集]

白洲の車好きは有名である。イギリス留学中にベントレーやブガッティを乗り回し、「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)と呼ばれていた。ロンドンから1時間ほどのレーシングコース「ブルックランド」においてベントレーで快走していた。また、2代目トヨタ・ソアラの開発に際しては事実上のアドバイザー役を務めた。

主な車歴[編集]

Winter Vacation 1925-1926(ヨーロッパ大陸12日間の旅)[編集]

残っているノートには"where we stayed"とあるため、親友ロビンと旅したようである。

エピソード[編集]

  • 身長185センチ、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある[6]
  • 非常にせっかちな性格の持ち主。その為ゴルフは「プレイ・ファスト」、食事は早食い。酒も手早く済ませたと伝えられている。軽井沢ゴルフ倶楽部では「素振り禁止」と張り紙をしたり、次郎の方から食事に誘った友人よりも早く食べ終えて「早くしろよ」と急かす事もしょっちゅうだった。
  • 日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている(サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用した)。また、ラッパズボンも愛用していた。
  • 晩年、彼が政治家として最も評価していたのは英語使いとして知られた元官僚の宮澤喜一であったが、正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。
  • 結婚当初、正子を「薩摩の奴らは江戸に入城した時は、・・・」とからかったら正子から横っ面に一発ビンタを御見舞いされ、それ以降「薩摩」を揶揄する事はなかったそうである。
  • 映画『夜の蝶』(昭和32年(1957年)、大映)の主人公、白沢一郎(コロンビア大卒の前国務大臣。イラン石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪)のモデルは彼である。
  • 手先が器用で日曜大工が趣味の1つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品を良く作っていた。
  • 日本橋の肉料理屋「誠」が行きつけであった。
  • 食べ物は基本的には肉類を好み、高齢になってからも大食漢。80歳を過ぎても250gのステーキを平らげていた。また明太子も好物だった。次郎は戦後に西鉄がプロ野球球団を設立する際の後ろ盾になったがその時、西鉄側に土産として明太子を持ってこさせた。最初に西鉄側が土産に持ってきたところ気に入ったためのようで、パンに塗って食べるのが好みだったようである。
  • 神戸一中時代に、宝塚歌劇団に10歳位年上のガールフレンドがいた。
  • GHQ/SCAP民政局長のホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と白洲が返答した有名なエピソードであるがこれは単に次郎の英語が日本人ばなれして上手だったので、ホイットニーにやり返したと言う事では無い。このエピソードには以下の背景がある。
イギリス英語にはオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学生・教員・出身者のみが喋る独特の訛があり、オックスブリッジアクセントと呼ばれる(そして階級社会のイギリスでは、オックスブリッジアクセントを喋る者は上流階級としてあらゆる場所で然るべき待遇を受ける)。ケンブリッジ出身の白洲の喋る英語は当然、オックスブリッジアクセントであった。一方、アメリカの大学とオックスブリッジとの関係であるがアメリカで名門とされる大学群であるアイビーリーグですらオックスブリッジを手本に創立された。そしてホイットニーは、一般市民に広く門戸を開放した事で有名なジョージワシントン大学出身である。つまりこれは、
  1. 米国人の出自
  2. ホイットニーの学歴
  3. オックスブリッジアクセントを知らず、あろうことか「英語が上手い」と褒めたホイットニーの無教養ぶり
の3つを揶揄する痛烈な皮肉である。次郎の「もう少し勉強」と言う言葉は2に掛かると「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学出来てオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる」、3に掛かると「あなたももう少し勉強すればオックスブリッジアクセントの事が解って、そのような失礼な事を発言しなくなる」と解釈できる。
  • 次郎は相手の地位・身分などに臆することなく自らの「プリンシプル」や矜恃に反するものには容赦ない態度で臨んだが一方で合理的でユーモアを解する側面もあり、また下位の者には寛大で心遣いを欠かさなかった。
  • 東北電力会長時代、ゴム長を履き自ら車を運転して各地のダム建設現場を回り飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。普段の厳しい姿を知っている東北電力社員が畏まっているのとは対照的に作業員の子供は次郎に良く懐き、膝の上に抱かれる事も多かったという。次郎以外の社員には全く寄り付かない子供たちを見て次郎は「子供には、誰が本当にいい人か分かるんだよ」と言って笑い、周囲を悔しがらせた。
  • また軽井沢ゴルフ倶楽部時代、早朝の散歩を兼ねて場内を見回っていた時、工事のため徹夜で見張りをしていた鹿島建設の社員に「おい爺さん、立ち入り禁止だ」と咎められた事がある。後に理事長室に呼び出され咎めた相手が理事長の次郎と知った社員はクビを覚悟したが次郎は彼を親しく自分の隣に座らせた上、同席していた鹿島建設役員に「一所懸命やってくれるのは有難いが、下の者に無理をさせてはいかん」と諭した。キャディー等のゴルフ場の裏方にも気さくに接し、慶弔時には小マメに祝いの品や香典等を贈っていた。死去して20年以上経った今でも、次郎から貰った品を大切に保管している人も多い。ある時フロント係の女性が結婚した事を知ると、倶楽部会員や知人に回状を廻して祝い金を集めて贈った。回状の署名には佐藤栄作井深大水上勉川口松太郎など錚々たる人物名が記してあった。
  • 次郎はジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいが「うるさがたの爺様」だったようである。中曽根康弘が軽井沢ゴルフ倶楽部に立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ「なんだ?バードウオッチングか?」と強烈に皮肉ったといわれている(当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)。一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないのか!」と一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。
  • 吉田の総理退陣(昭和29年(1954年))後、長男である吉田健一に後継としての政界入りを打診する。しかし、政界への興味のなさと小りんとの再婚以後の茂との折り合いの悪さなどから、「その器ではない」と健一に断られる。これは次郎にとって痛恨事であったようで、後年に至るまでこの健一の態度についてかなりの悪口を言っていたらしい。その悪口を聞く機会があった辻井喬(堤清二)は後に著作の中で、およそ次郎に当てはまらぬ「可憐な人」との表現を用いて強烈に皮肉った。

田中角栄に関連するエピソード[編集]

田中角栄とのエピソードも幾つか存在する。

  • 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一にした。次郎が理事を務めるゴルフクラブに、ある日秘書らしき若者から「これから田中がプレイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した次郎が「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答があった。「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」と次郎が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理です」と返答があった。次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」と言い、そっぽを向いたとのことである。
  • クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったにもかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言った。
  • 田中に対してはクラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。次郎は田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金に苦労しすぎた」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。
  • 田中を批判するばかりではなかった。ロッキード事件が起こると、各新聞は「容疑者の田中は…」と書きたてた。次郎は新聞社の社長に向かって「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は4年前彼を今様太閤として「戦後日本が生んだ英雄」とおだてていました。今、容疑者田中と書くならなぜその前に「本誌はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした」とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」と主張した。

名言集[編集]

  • 「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」
  • 「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。Jonは次郎のことである)
  • 「お嬢さんを頂きます」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父・樺山愛輔に言った台詞)
  • 「ネクタイもせずに失礼」(新婚当初、正子との夕食の席で)
  • 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞)
  • 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて)
  • 「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ』より)
  • 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
  • 「“No Substitute”(かけがえのない)車を目指せ」(2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の岡田稔弘に)
  • 「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」(犬丸一郎帝国ホテルの社長に就任するに当たって贈った言葉。地位に固執しなかった次郎の考え方が良く表れている)
  • ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ」三宅にアドバイスとして。
  • 「わからん!」(正子の『西行』を読んで)
  • 「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて)
  • 「Hope She will be MORE TIDY! 1979」(武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん)
  • 「今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている」
  • 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女の(現・牧山)桂子に向かって)
  • 「右利きです。でも夜は左」(入院した病院で看護師さんに「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ)

白洲次郎を取り上げた作品[編集]

宝塚歌劇[編集]

宝塚歌劇団宙組(そらぐみ)は、平成20年(2008年)に「黎明の風」という題名で次郎の波乱の生涯を扱った。

同年2月、宝塚大劇場で初演。同劇場は歌劇団本拠であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣街でもある。

2~3月は同所で、4~5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売される。次郎を演ずるのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。

次郎は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男は東宝東和社長)、また前述のとおり次郎が神戸一中時代に歌劇団員と知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。

その他の作品[編集]

家系[編集]

白洲家[編集]

白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵文政12年7月15日1828年8月15日)、現・兵庫県三田市屋敷町にて出生。父は白洲文五郎(曽祖父)、母(曽祖母)は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳家の家老黒石氏の娘・里子)[7]は三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また現在の元町三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム神戸女学院の前身)の創立にも尽力した。

父・白洲文平ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。

子孫[編集]

次郎に愛されたブランド[編集]

次郎が愛した食事処[編集]

脚注[編集]

  1. 牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』より
  2. 樺山正子との婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。
  3. 夫人の正子によれば、臆病なので空襲をおそれてとのこと。
  4. もちろん事実としては蔵相時代に激しく日本側の立場を主張して公職追放になった石橋湛山などもおり、次郎しか従順でない日本人がいなかったわけではない。
  5. いわゆる「ジープウェイ・レター」。ホイットニーからの返事が国立国会図書館に保存されている(紹介ページ)。
  6. 平成18年(2006年)4月にNHK番組『その時歴史が動いた』でも取り上げられた。
  7. 高田義久 著:『三田藩の進路をリードした 大参事白洲退蔵』より[1]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ(のち新潮文庫)、平成18年(2006年)6月
  • 白洲正子 『遊鬼』、『白洲正子自伝』 新潮社(のち新潮文庫) 『全集』 新潮社
  • 青柳恵介 『風の男 白洲次郎』 新潮社、平成9年(1997年)11月 新潮文庫、平成12年(2000年)8月
  • KAWADE夢ムック 『文藝別冊 白洲次郎』 河出書房新社、平成14年(2002年)4月
  • 北康利 『白洲次郎 占領を背負った男』 講談社、平成15年(2005年) 講談社文庫、平成20年(2008年)12月
  • 鶴見紘 『白洲次郎の日本国憲法』 光文社知恵の森文庫、平成19年(2007年)
  • 牧山桂子ほか 『白洲次郎の流儀』<とんぼの本> 新潮社、平成16年(2004年)9月、ISBN 4106021188
  • 白洲正子ほか 『白洲次郎』<コロナ・ブックス67> 平凡社、平成11年(1999年)
  • 徳本栄一郎 『英国機密ファイルの昭和天皇』 新潮社、平成19年(2007年)5月、ISBN 410304831X
    • 実際には本書の主人公は次郎である。
  • 白洲信哉 『白洲次郎の青春』 幻冬舎、平成19年(2007年)、写真集
  • 牧山桂子 『次郎と正子-娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、平成19年(2007年)4月
  • 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 新潮社、平成20年(2008年)9月
  • 牧山桂子・野中昭夫写真 『白洲次郎・正子の食卓』 新潮社、平成19年(2007年)1月
  • 石井妙子 『おそめ』 新潮社、平成18年(2006年)1月、ISBN 489691984X
  • 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社(のち講談社文庫)、平成14年(2002年)
    • 『白洲次郎のダンディズム なぜ男らしくありえたのか』 ぶんか社文庫、平成20年(2008年)
  • 清水将大編著 『白洲次郎名言集 男の品格2』 コスミック新書(コスミック出版)、平成19年(2007年)
  • 勢古浩爾 『白洲次郎的』 洋泉社新書y124、平成16年(2004年)

外部リンク[編集]

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