野田佳彦

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野田 佳彦
野田 佳彦
野田 佳彦

野田 佳彦(のだ よしひこ、1957年(昭和32年)5月20日 - )は日本政治家民主党所属の衆議院議員(6期)。

千葉県議会議員(2期)、民主党国会対策委員長(第7代・第10代)、花斉会会長(初代)、財務副大臣財務大臣第14代)、内閣総理大臣第95代)、民主党代表(第9代)などを歴任した。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

野田 佳彦

千葉県船橋市出身。父は富山県農家の6人兄弟の末っ子として生まれ、陸上自衛隊習志野駐屯地に所属した自衛官。母は千葉県の農家の11人兄弟の末っ子だった。

3歳の時、当時日本社会党委員長であった浅沼稲次郎が死亡した浅沼稲次郎暗殺事件を知り、初めて政治家を意識した。保育園に通っていたときには、ジョン・F・ケネディ暗殺が起き、政治家は命懸けの仕事なのだと幼児期には固く信じていた。

学生時代[編集]

船橋市立薬円台小学校船橋市立二宮中学校と進み、1976年(昭和51年)3月、千葉県立船橋高等学校を卒業。

県立船橋高校では柔道部に所属。1976年(昭和51年)4月、早稲田大学政治経済学部政治学科に現役で入学。立花隆に憧れ、ジャーナリストを志していた。在学中は新自由クラブボランティア活動をしていた。

1980年(昭和55年)3月、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。松下幸之助が設立したばかりの松下政経塾に第1期生として入塾した。野田は「今でも、松下幸之助塾長との最終面接を鮮烈に覚えています。笑顔で迎えてもらったが、目は笑っていませんでした。むしろ、射抜くような怖い目つきでした。耳はとても大きくて、ピンと立っていました。」「『キミの身内に政治家はおるか?』『まったくいません』『そりゃ、エエな。ところでキミの家は金持ちか?』『どちらかというと貧乏です』『なお、エエな』何が良かったのか、いまだにさっぱり分かりません。が、こうして、政経塾で5年間、あるべき政治の姿を学ぶことになりました。」と当時について回想している。

1985年(昭和60年)に政経塾を卒業した。

政界入り[編集]

家庭教師都市ガスの点検員等、様々な仕事の経験を経て、1987年(昭和62年)に千葉県議会議員選挙に千葉県内一の激戦区である船橋市から立候補した。選挙資金はカンパによる500万円、運動員は20代のボランティア約50人だったが、「金権千葉の政治風土を変えよう」「路地裏の政治」と毎日朝夕、駅前で訴え、下馬評を覆し当選した。千葉県議は2期務めた。

国政へ[編集]

野田 佳彦
野田 佳彦

1992年(平成4年)に松下政経塾の評議員の1人だった元熊本県知事細川護煕の下で日本新党の結党に参加した。翌1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙旧千葉県第1区から出馬して、当選した。この総選挙では日本新党ほか新生党新党さきがけが党勢を拡大して自由民主党を過半数割れに追い込み、8党派による連立政権が誕生するが、細川内閣羽田内閣はともに短命に終わり、非自民・非共産連立政権は10ヶ月で幕を下ろした。直後に野党による新・新党(新進党)結成の機運が高まり、野田も1994年12月の結党に参加した。衆院議員になった1993年(平成5年)夏、地元の千葉県に松下政経塾の地域政経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立している。

小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙では千葉県第4区から出馬するが、衆院選選挙区では最小となる105票差で自民党の田中昭一に敗れた(田中:73,792票、野田:73,687票、惜敗率:99.85%)。落選後に新進党を離党し、民主党に入党した。約4年間の浪人時代は中小・零細企業の経営者たちのカンパに支えられたという。1999年に医療グループ「DSヘルスケアグループ」社長の寒竹郁夫が後援会長に就任した。

2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙では、民主党公認で千葉4区から出馬して当選し、国政に復帰。同年、民主党総務局長に就任した。翌2001年(平成13年)の民主党次の内閣でネクスト行政改革・規制改革担当大臣に就任する。

2002年(平成14年)9月の民主党代表選挙に際しては、菅直人鳩山由紀夫の「鳩菅体制」に危機感を覚える前原誠司松沢成文河村たかしなどの中堅・若手議員で「第二期民主党をつくる有志の会」を結成した。代表選に前原と野田のどちらを擁立するかで調整が難航したが、中堅・若手議員を代表する形で野田の出馬に落ち着いた。鳩山代表の3選は阻止できず落選したが、選挙戦を通じて党内での知名度を高めた。その後、鳩山代表から政策調査会長就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選出馬を取り止めた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞した。

12月に民主党国会対策委員長に(2003年〈平成15年〉11月まで)就任。2004年(平成16年)には次の内閣財務大臣に就任(2005年〈平成17年〉9月まで)して、党の要職を歴任する。

2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙では千葉4区で自民党の藤田幹雄の猛追を受けるが、944票差で藤田を破り、4期目の当選を果たす。なおこの選挙で、千葉県内の小選挙区で当選した民主党議員は野田ただ1人であった。

堀江メール問題での失脚[編集]

2005年(平成17年)の総選挙で惨敗した民主党は敗北の責任を取って辞任した岡田克也代表の後任に前原誠司を選出して、野田は前原執行部で再度国会対策委員長に就任した。しかし、2006年(平成18年)2月に永田寿康が引き起こしたライブドア元社長の堀江貴文の総選挙出馬をめぐる堀江メール問題では、当初このメールの信憑性をうたがわず永田を擁護する対応をとったため国対委員長を引責辞任した(のちに前原も民主党代表を辞任)。なお、このメール問題について2008年(平成20年)に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然そなわっている危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘された。また馬淵澄夫によれば、国対委員長を辞任した野田と神楽坂のバーで飲んだ際、野田は「いやー、いろいろあったけど墓場まで持っていくしかねぇな」と話したという。

国対委員長辞任後は科学技術政策ワーキングチームの座長として宇宙の軍事利用の検討を行い、防衛目的の利用はできないという従来の政府解釈を転換し、非侵略での宇宙利用を容認する「宇宙条約」の締結を進める方針や「宇宙庁」の設置を主張した。

2007年(平成19年)11月から2008年(平成20年)4月まで国土審議会委員を務めた。

2008年(平成20年)8月に「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張して、民主党代表選への出馬をあきらかにしたが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなどみずからのグループをまとめきれず、さらに安住淳国対委員長代理(当時)からいわゆる偽メール問題の責任を挙げられ自省を迫られるなど、推薦人(20人)確保のめどが立たず、出馬を断念。これにより、小沢一郎代表体制の継続が事実上決まった。野田の出馬断念に反発した馬淵澄夫グループを脱会した。

2009年(平成21年)5月の小沢代表辞任に伴う後継選挙では岡田克也を支援した。岡田は鳩山由紀夫に敗北したが、岡田が鳩山代表のもとで幹事長に就任すると幹事長代理として執行部入りした。

鳩山内閣[編集]

野田 佳彦

2009年9月、鳩山由紀夫内閣が成立すると藤井裕久財務相の推挙により財務副大臣に就任。2010年(平成22年)1月に藤井が健康上の問題を理由に辞任すると、小沢一郎幹事長と敵対関係ではなかったため、後任候補の1人として名前が上がった、藤井も野田を後任に推薦する意向だったが、菅直人副総理国家戦略担当大臣から横滑りする形で副総理兼財務相に就任し、野田の財務相昇格案は見送られた。

菅内閣[編集]

2010年(平成22年)6月に鳩山が代表・首相辞任を表明して、6月8日に鳩山内閣は総辞職した。後継代表・首相には菅副総理兼財務相が就任して、菅内閣の財務相には野田が副大臣から昇格する形で就任した。初入閣での財務相就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣時代を含めても比較的異例である。

同年8月20日、為替動向について記者会見で「重大な関心をもって注意深くみていく」と述べる一方、為替介入についてはコメントを避けた。9月8日、円高について衆院財務金融委員会での答弁で「明らかに一方的に偏っている」とし、「必要なときには為替介入をふくむ断固たる措置をとる」「産業の空洞化にもつながりかねないということで、強い懸念をもっている」と述べた。9月15日、政府・日本銀行が「円売りドル買い」の為替介入に踏み切ったことを発表。この介入により1ドル=82円台から1ドル=85円台に急落した。10月8日、1ドル=81円台に上昇したことを受け「より一層重大な関心を持ってマーケットの動向を注視し、必要なときには介入を含めて断固たる措置をとるという姿勢に変わりはない」と述べた。また同日ワシントンで開かれた先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では為替介入について「批判的な意見は出なかった」と説明した。

9月に発足した菅改造内閣でも財務相に留任。2011年(平成23年)1月の内閣改造に際しては内閣官房長官への横滑りも取り沙汰されたが、野田が財務相続投を強く希望したため、菅再改造内閣でも留任した。

スタンダード&プアーズによる米国債の格下げに伴い、2011年(平成23年)8月8日に行われたG7電話会談では、「米国債への信頼は揺るがないし、魅力ある商品だと思う」と述べ、円高に対してはマーケットの動向を注視すると述べた。

2011年民主党代表選挙[編集]

野田 佳彦

2011年(平成23年)6月9日、菅直人首相の退陣表明を受けて仙谷由人民主党代表代行や岡田克也党幹事長らは民主党代表選挙に野田を擁立する方向で調整。朝日新聞2011年〈平成23年〉6月9日付)が1面トップでポスト菅の「本命」と報じ、夕刊の各全国紙が後追いした。野田は8月10日の文藝春秋で「時機が来れば、私は、先頭に立つ覚悟です」と党代表選への出馬に意欲を示し、同日の記者会見では「脱小沢」路線は見直すべきとの考えを示した。8月23日、代表選での連携を期待していた前原誠司が立候補の意向を示した。

野田は8月26日に立候補を表明して、福島第一原発事故の収束を優先事項に挙げる。また自身は脱原発依存の立場であり、原発は新設しないことを表明した。朝日新聞が8月26日に発表した「次期首相にだれがふさわしいか」の世論調査の結果では、原口一博に次ぐ4位となった。同26日には小沢一郎元代表の支持を受けた海江田万里経済産業大臣が立候補を表明。代表選には史上最多となる野田・前原誠司前外務大臣・海江田経産大臣・鹿野道彦農林水産大臣馬淵澄夫国土交通大臣の5人が立候補する形となった。

2011年(平成23年)8月29日に施行された代表選挙では、第1回目の投票で海江田の143票に次ぐ102票を獲得。過半数を獲得した候補がいなかったため決選投票となり、小沢への批判票を集めた野田が215票を獲得して177票を獲得した海江田を逆転し、第9代民主党代表に選出された。

投票前に行われた、いわゆる「ドジョウ演説」では、ジョークや相田みつをの詩を交えつつ、政治に「夢、志、人情」を取り戻すことを訴えた。落語家の三遊亭楽春は「落語にドジョウは出てくるが主役じゃない。野田さんは華はないけど実直で安心感はある」とドジョウ演説を評価した一方で、政治評論家の有馬晴海は「『ドジョウ政治』と言っても何をしたいのか分からない。もっと自分の生活から絞り出てくる言葉がほしい」と批判した。

党首選挙に於ける決選投票での逆転当選は、1956年12月自由民主党総裁選挙での石橋湛山以来55年振りで、民主党では初めてとなった。

野田内閣[編集]

野田内閣[編集]

野田 佳彦

民主党代表選出後の2011年(平成23年)8月30日、菅再改造内閣の総辞職を受け衆参両院で行われた首班指名選挙において、第95代内閣総理大臣に指名された。9月2日に天皇による親任式を経て正式に就任し、民主党と国民新党の連立による野田内閣が発足した。松下政経塾出身の初めての総理大臣である。

10月7日に政府は臨時閣議で東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の復興事業を盛り込んだ第三次補正予算案を閣議決定して、野田は東日本大震災復興対策本部で予算案の早期成立に向けて野党の意見を取り入れる姿勢を示した。補正予算の総額は12兆円程度で、うち震災関係経費は9兆1,000億円。財源は10年間で9兆2,000億円にのぼる臨時増税で賄う方針。復興財源を所得税や法人税などの臨時増税で賄うことに対して、毎日、読売、日経、朝日の各紙は「増税やむなし」との見解を社説で表明したのに対して、産経と東京の二紙は「歳出削減が第一である」と疑念を呈した。また、みんなの党渡辺喜美や松下政経塾設立に関わった江口克彦が松下幸之助の「無税国家論」と相容れないと国会で質問したのに対し、野田は「松下さんが想定をしていたよりもはるかに深刻な財政状況を招いている」「松下幸之助は(中略)演壇においてとうとうと師の教えと私の持論を述べることについて必ずしもお喜びにならないと思います。むしろ、実行し、実践することを求めていると思います」と答弁した。

2012年6月、2011年度第1~第3次補正予算で計上された復興予算約15兆円のうち約4割が年度内に使われなかったことが明らかになった。震災直後は被害状況の把握が難しく予算が多めに計上されたことや、被災地との調整に手間取り復興事業が想定通りに進まなかったことが原因とされている。

2011年(平成23年)10月19日韓国訪問中に李明博大統領と会談を行い、日韓経済連携協定(EPA)交渉の早期再開に向け実務者協議を加速させることや、市場の不安定化に備えて両国の通貨スワップの限度額を現行の130億ドルからその5倍の700億ドルへ拡充することなどで合意した。通貨スワップの拡大は、相互依存関係が強まっている韓国経済を安定化させることによって日本の経済成長を促し、日本が通貨スワップを行使して円売り・ドル買いを行うことによって円高を抑える効果が期待できるとされている一方で、日本にはメリットがほとんどないという見解もあり、日本のインターネット上では「復興のための財源とすべき」「復興のために増税すると言っておきながら、理不尽だ」などという野田に対する反発の声が高まった。 日韓首脳会談では同時に、植民地時代に日本に渡った朝鮮半島由来の図書5冊が引き渡され、「韓日関係が未来に向かうため象徴的意味を持っている」と李から謝意を表明された。

10月21日、野田は大洪水の被害が拡大しているタイへの支援策を早急にまとめるように閣僚に指示し、政府は船外機仮設トイレライフジャケットなど2,500万円相当の第二弾の緊急援助物資を決定した。タイからは東日本大震災に際し、援助物資や義援金を受け取っており、政府はすでに緊急援助物資としてテントや浄水器など3,000万円相当、東南アジア諸国連合プラス3(ASEAN+3)の備蓄米を融通し合う制度を利用して5万ドルなどをタイに対して支出した。

10月31日ズン ベトナム首相と官邸で会談し、2010年に合意した日本が輸出するニントゥアン第二原子力発電所について計画通り実施することを再確認した。3.11後、菅首相(当時)による原発輸出見直し発言もあったが、これにより従来通り原発輸出推進へと舵を切ることとなった。

12月22日、野田が議長を務める国家戦略会議において「日本再生の基本戦略」が決定され、東日本大震災からの復興に加え、アジアの成長を取込み、2011年(平成23年)度から2020年(平成32年)度の平均で国内総生産名目成長率3%程度、実質成長率2%程度を目指す国家戦略を定めた。

野田第1次改造内閣[編集]

2012年(平成24年)1月13日、内閣改造を行い、野田第1次改造内閣が発足した。同年3月30日、政府は消費税率を現行の5 %から10 %まで段階的に引き上げる消費増税関連法案を閣議決定し、国会に提出した。野田は、これに先立つ国会答弁で「将来不安をなくすことによって、消費や経済を活性化させることもある」などと意義を強調したが、 野党時代にはこれとは逆に、増税で「日本経済が肺炎に」などと発言していたと報道された。

野田第2次改造内閣[編集]

野田 佳彦

2012年(平成24年)6月4日、再度内閣改造を行い、野田第2次改造内閣が発足した。防衛相拓殖大学大学院教授の森本敏を初めて民間から起用した。森本の前任の一川保夫田中直紀はともに問責決議を受けていたため、防衛相人事は野田にとって鬼門だと評された。この人事には与野党から批判の声が上がったが、元朝日新聞論説委員の薬師寺克行は「形式論的な指摘でしかなく、本質を突いた批判になっていない」と述べている。

同年6月15日、民主党、自由民主党、公明党の実務者間での協議が合意に達し、社会保障・税一体改革関連法案の修正内容について合意が成立した。しかし、修正法案の内容に対して党内の反対派から「第45回衆議院議員総選挙マニフェストでうたった社会保障改革が棚上げされた」と合意内容を批判する声が上がっている。これに対し民主党の岡田克也副総理は、増税についてマニフェストに書いていない点は率直におわびしなければならないとした上で、東日本大震災と欧州経済危機の発生により「社会保障制度の持続可能性のためにも消費税を上げざるを得ない」と反論。また関連8法案のうち6法案は社会保障改革に関するものであり、棚上げは事実と異なると主張している。党内からは、党大会に次ぐ議決機関である両院議員総会の開催を求める声が高まり、開催を求める154名分の署名が執行部に提出されたが、社会保障・税一体改革関連法案を議論するための両院議員総会は開かれず、代わりに両院議員懇談会が開かれた。

6月26日の衆議院本会議での社会保障・税一体改革関連法案の採決では、民主党内から反対、棄権、欠席した議員が73名に達し、閣僚経験者ら大物議員を含め造反者が続出する事態となった。採決に先立ち、加藤学から反対票を投じる方針を聞いた後援会長の中島衛は「加藤議員とは基本的に路線が一致していると思う」と話した。また田中秀征は「かつて日本の政治史に、これほどまで明確な重大公約違反があっただろうか」と話ている。

7月2日、社会保障・税一体改革関連法案に批判的な小沢一郎東祥三広野允士らが一斉に離党届を提出して「国民の生活が第一」を結成し、新党きづなとの統一会派「国民の生活が第一・きづな」を発足させた。党執行部は造反者や離党届提出者への処分案を取りまとめるが、7月4日に社会保障・税一体改革関連法案に批判的な加藤学が離党届を提出し、さらにその2日後に米長晴信が離党届を提出したことから、再び処分案を見直す事態となった。また、7月17日には、野田の原子力政策に批判的な舟山康江行田邦子谷岡郁子が離党届を提出し、新たな会派「みどりの風」を結成した。その翌日には、野田の外交政策や社会保障・税一体改革関連法案に批判的な中津川博郷が離党届を提出した。地方議会議員の離党も相次いでおり、岩手県では党所属の地方議会議員のうち7割以上が離党する事態となった。8月8日、衆院解散時期について民自公の三党で会談し、消費税増税を柱とする社会保障と税の一体改革関連法案を成立させた上で、具体的な解散時期は明示せず、「近いうちに信を問う」ことで合意したが、10月24日、新党大地・真民主鈴木宗男から「今は景気対策や復興対策に力を注ぐべきで、選挙をやるべきではない」と問われた野田は、「私もそう思います」と応じた。

9月19日差別虐待などの人権侵害事案の解決にあたる救済機関「人権委員会」を法務省外局として新設するための人権救済機関設置法案閣議決定した。慎重派の国家公安委員会委員長松原仁が海外出張のため不在であり、野田の側近は「慎重な閣僚がいないから(閣議決定しても)いいじゃないか」と言明したという。

野田第3次改造内閣[編集]

2014年11月津田沼駅前にて。誰も聞かず誰もビラを受け取らず

2012年(平成24年)10月1日、内閣改造を再び行い、野田第3次改造内閣が発足した。10月23日に、田中慶秋法務大臣が暴力団関係者との交際問題で事実上の更迭をされただけでなく、前原誠司国家戦略担当大臣の事務所費問題や田中真紀子文部科学大臣の『3大学の「不認可」』問題が発生し、改造内閣発足後1ヶ月で支持率が17%(共同通信社調査)まで低下している。

10月9日、韓国ウォンの急落を受けて前年10月に700億ドルに引き上げられた日韓通貨スワップ協定の拡充措置を予定通り打ち切ることで両国が合意。11月以降は700億ドルから130億ドルに大幅減少する。

11月9日、人権委員会設置法の法案提出を閣議決定した。

11月14日、国会で行われた党首討論で自由民主党総裁安倍晋三に対し、当国会中の議員定数削減法案可決に協力することを確約するなら同月16日に衆議院解散を行うと明言した。この解散表明は岡田克也副総理や藤村修官房長官らごく限られた人数にしか知らされておらず、連立与党の国民新党や解散を求めていた自民・公明両党も予想していなかった。政治評論家の筆坂秀世は、この討論での野田の弁論は安倍、国民の生活が第一小沢一郎代表、公明党山口那津男代表を圧倒した一方で、安倍は動揺しまともに回答できなかったと評している。11月16日、野田は閣議で解散を宣言し全閣僚が署名。衆院本会議で横路孝弘衆院議長が解散を宣言した。

12月16日施行の第46回衆議院議員総選挙では、従来からの千葉4区、さらに比例南関東ブロック重複立候補した。北朝鮮が人工衛星と称するミサイル発射への警戒のため遊説を自粛していたが、強固な支持基盤に支えられ小選挙区で当選した。同日、民主党が惨敗したことを受けて党代表辞任を表明した。

12月26日、臨時閣議にて閣僚の辞表を取りまとめ、内閣総辞職した。在任期間は482日間で、民主党出身3代の首相としては、鳩山の266日、菅の452日を上回った。総辞職にあたり「ぬくもりあふれる社会を取り戻し、次の世代に引き継ぐための道筋をつけることができた」「(閣僚に対して)汗を一緒にかいたことをありがたく思う」と談話を発表。

年譜[編集]

2014年11月津田沼駅前にて。誰も聞かず誰もビラを受け取らず
  • 1980年(昭和55年):早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業する。松下政経塾に入塾(第1期生)。
  • 1987年(昭和62年):千葉県議会議員に無所属で立候補する。当選。
  • 1991年(平成3年):千葉県議会議員に無所属で立候補する。再選。
  • 1993年(平成5年):第40回衆議院議員選挙に日本新党公認で出馬する。初当選(1期目)。
  • 1996年(平成8年):第41回衆議院議員選挙に新進党公認で出馬したが105票差で落選する。
  • 2000年(平成12年):第42回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬する。当選(2期目)。
  • 2002年(平成14年):民主党代表選挙に、第二期民主党をつくる有志の会に推され出馬するが、鳩山由紀夫に敗れる。
  • 2002年(平成14年):民主党の党国会対策委員長に就任する。
  • 2003年(平成15年):第43回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬する。当選(3期目)。
  • 2005年(平成17年):第44回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬する。当選(4期目)。
  • 2005年(平成17年):党国会対策委員長に2度目の就任した。
  • 2006年(平成18年):党国会対策委員長を引責辞任する。
  • 2007年(平成19年):党広報委員長に就任する。
  • 2009年(平成21年):第45回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬する。小選挙区当選(5期目)。
  • 2009年(平成21年):鳩山由紀夫内閣財務副大臣に就任する。
  • 2010年(平成22年):菅直人内閣で財務大臣に昇格就任する。初入閣。
  • 2011年(平成23年):民主党代表及び内閣総理大臣に就任する。
  • 2012年(平成24年):第46回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬する。小選挙区当選(6期目)。
  • 2012年(平成24年)12月26日:臨時閣議にて内閣総辞職する。在任期間は482日間。

政策・主張[編集]

2014年11月津田沼駅前にて。誰も聞かず誰もビラを受け取らず
  • 主に松下政経塾出身者の若手議員を中心とした「野田グループ」の領袖である。
  • 沖ノ鳥島領土であることを批判した唐家璇中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実効支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べた。更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したことがあり、一貫して中国脅威論を主張する。一方、2012年10月29日の所信表明演説では、尖閣・竹島などの領土問題に関して具体的な国や島の名前の言及は避けており、竹島問題での国際司法裁判所(ICJ)への単独提訴を11月以降に先送りするなど「関係改善」を探っている。2012年10月27日に判明した自衛隊と在日米軍による共同の離島奪還訓練の断念については、米・キャンベル国務次官補が「日本が決めたなら、戻せとは言わないが、なぜ中止しないといけないのか理解しかねる」と述べた。
  • 小泉純一郎首相の靖国神社参拝が論争となっていた2005年(平成17年)10月17日、「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は破綻しているが、小泉総理の見解ではその論理を反駁できない」、「参拝の是非は国際政治的な利害を踏まえてなされるべきもので、誤ったA級戦犯理解に基づく是非論はA級戦犯とされた人々の人権侵害であり、人権と国家の名誉に関わる問題である」「東京裁判を受諾したという政府や外交当局の見解によれば、裁判における南京大虐殺20数万や日本のソ連侵略といった虚構も含め、日本が満州事変以降一貫して侵略戦争を行って来たという解釈を受け入れることになってしまう」という趣旨の質問主意書を提出した。総理大臣就任後は靖国参拝を自粛し、8月15日に参拝の意向を示していた羽田雄一郎国土交通相と松原仁国家公安委員長にも自粛するように求めた。
  • 「安全保障基本法」「緊急事態法」の制定を主張している。
  • 鳩山由紀夫内閣における永住外国人への地方選挙権付与(外国人参政権)については「今、法案を出して、党内をばらばらにする必要はない。政府提案であっても、議員提案であっても、出すべきではない」と述べ、慎重な姿勢を示し、自身の外国人参政権に対する姿勢については「明確に反対だ。外国人が、帰化の手続きを簡略にできるようにすればいい」と述べている。
  • 経済政策では、与謝野馨らと並んで財政再建派・増税派の代表格とされる。東日本大震災の復興財源を賄うための臨時増税を示唆している。
  • 2009年(平成21年)7月14日衆議院本会議で、「25000人の国家公務員OBが、4500の法人に天下りをし、その4500法人に12兆円1000億円の血税が流れていることがわかりました。これだけの税金に一言で言えばシロアリが群がっている構図があるんです。そのシロアリを退治して、働きアリの政治を実現しなければならないのです」と述べて、天下りの根絶を主張している。さらに、衆議院議員総選挙公示目前の2009年8月15日には、「シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす。そこから始めなければ、消費税を引き上げる話はおかしいんです。徹底して税金の無駄遣いをなくしていく。それが民主党の考え方であります」と大阪府堺市で演説している。
  • 大連立推進論者である。自民党、公明党との大連立に関し「101回でもプロポーズしていきたい」と意欲を示している。
  • TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)推進論者である。
  • 選択的夫婦別姓制度導入推進を主張している。改姓による職業上の不利益をなくす、生まれたときからの姓を使い続けたい、それぞれの理由により、別姓を選択したい人が自らの姓を使い続けられるようにするべき、と述べている。
  • 物価について「インフレで喜ぶのは株・土地を持っている人。一般庶民には関係無い」と述べている。

人物[編集]

人柄、性格、趣味など[編集]

2014年11月津田沼駅前にて。誰も聞かず誰もビラを受け取らず
  • 身長173cm、体重79kg。血液型はB型。尊敬する人物は松下幸之助とロバート・ケネディ。座右の銘は松下政経塾の「五誓」の一つである「素志貫徹(成功の要諦は成功するまで続けるところにある)」。政治信条はケネディの「アイデアリズム・ウイズアウト・イリュージョン(幻想なき理想主義)」。
  • 性格は温厚で低姿勢と評される事が多い。
  • 趣味は格闘技観戦。小学生の時にキックボクシング沢村忠に握手してもらい感動したという。最強と考えるプロレスラーはジャンボ鶴田。政治の場でも格闘技用語を使い、2002年(平成14年)の民主党代表選のキャッチフレーズは「ドスンパンチ」、2003年(平成15年)には小泉純一郎首相の答弁を「ヒットアンドアウェーというよりアウェーアンドアウェー」と表現した。柔道2の有段者で、田村亮子と写った写真を議員会館自室に飾っている。田村について「政治家としての行動は違うが、柔道家としては好き」と語っている。超党派で作る格闘技振興議員連盟の会長を務めている。本人曰く柔道でも政治でも寝技は苦手。2012年6月18日にメキシコで行われた日露首脳会談では、柔道家として知られるプーチン大統領と自国のロンドンオリンピック代表の柔道着を贈りあった。
  • 好物はラーメンと日本酒。酒豪だが高級バーをはしごするタイプではなく、庶民的な店がほとんどだという。カラオケの十八番は「柳ヶ瀬ブルース」「思えば遠くへ来たもんだ」など。
  • 2011年(平成23年)10月の資産公開で、野田の資産は1,774万円(千葉県船橋市の自宅の土地・建物計1,514万円、定期預金260万円)で、家族分も公開対象となった1989年(平成元年)以降、首相の就任時では過去最少となった。

政治家として[編集]

  • 駅前で通勤する人々に政策を訴える「朝立ち」を1986年(昭和61年)10月から2010年(平成22年)に財務相に就任する前日まで24年間続け、「駅前留学はNOVA、駅前演説はNODA」と自ら称した。
  • 財政政策にブレが少なくあまり省議に口を挟まないことから、財務省内では「仕えやすい上司」との評価が定着。演説の上手さにも定評がある。
  • 財務省ではたばこ増税に取り組んだが、自身は1日2箱の愛煙家で、「(増税は)切ないテーマ」と認めた。2011年(平成23年)7月、東日本大震災の復興財源の税目として更なるたばこ増税が議論になった際に、当時財務相であった野田は、税制を使った「オヤジ狩りみたいなもの」だと反発した。
  • 第162回通常国会における2005年(平成17年)1月21日の小泉純一郎首相による施政方針演説の中で、凶弾に倒れながらも「男子の本懐」と漏らした濱口雄幸首相を小泉が自らになぞらえたことに対して、1月25日の代表質問の場において、狙撃後も命をかけて国会に出席し説明責任を果たしたことが浜口の真骨頂であり、ぼかして逃げるあなた(小泉)とは違うと批判した。
  • 日本大学政治学教授岩井奉信は、党の内外や官僚と敵対しない温厚なタイプと野田を評した。

不祥事・問題を指摘された言動[編集]

政治資金問題[編集]

  • 過去に脱税事件で起訴された男性が関係する会社から、2007年(平成19年)6月に政治資金パーティーを行った際に40万円ずつ(計・80万円)のパーティー券を購入したことが判明した。この男性の関係する会社は前原誠司外相、蓮舫行政刷新担当相、渡辺喜美(みんなの党代表)の政治資金問題にも関与していたことが明らかになっている。自民党の西田昌司参議院議員は2011年(平成23年)6月3日の参議院予算委員会でこの問題を取り上げ、質問を行った。
  • 2011年(平成23年)1月20日朝日新聞社が調べたところによると、関係政治団体「野田よしひこ後援会」が、2009年(平成21年)にクラブスナックで支出した飲食費合計22万2500円を政治資金の交際費として支出したと、政治資金収支報告書に記載しており、野田の事務所は1月19日付で、報告書から削除した。この問題について、同事務所は「女性が接客する店の代金は、政治家の政治活動にはあたらない、と判断したので削除した」と説明した。
  • 2011年(平成23年)6月11日JNNが取材したところ、法人税1億数千万円を脱税していた容疑のあるソフト開発会社から「民主党千葉県第4区総支部」に2003年(平成15年)、2005年(平成17年)の2年間で計50万円の企業献金を受けていたことが明らかになった。
  • 2011年(平成23年)6月16日には、業務上過失致死罪で医師が起訴された品川美容外科グループ創業者の男性から、2008年2009年2010年に各100万円の政治献金を受け取っていたことが明らかになった。この問題に対し、野田は「返金を検討したい」と述べた。
  • 2011年(平成23年)9月4日には、自らの資金管理団体「未来クラブ」が政治資金規正法で禁じられている個人献金(政治献金)を韓国籍在日外国人2人から47万円余り受けていたことが新たに判明した。この問題について、献金を行っていた在日本大韓民国民団の船橋支部議長を務めている船橋市の男性は、「野田さんは私が外国籍であることは知っていたはず」と証言。一方で、日本名で献金を行ったことから「献金者が私だと気づかなかったのかもしれない」ともしている。野田は、「本人も事務所の者も全く知らなかった。専門家を入れて調査を行い、報告する」というコメントを出した。

在日本大韓民国民団に選挙協力で謝辞[編集]

2011年(平成23年)8月31日に「夕刊フジ」が報じたところによると、第45回衆議院議員総選挙の直後に行われた日韓友好イベント「マダン祭」で在日本大韓民国民団に対し、選挙協力への謝辞を述べていたことが判明した。野田はこの中で、「千葉民団の皆さんの力強いご推挙をいただき、力強いご支援をいただきましたことを、心から御礼申し上げたいと思います」とあいさつした。

経団連会長からの接待[編集]

2011年(平成23年)9月1日に、2010年(平成22年)10月29日の財務相就任時に、手塚仁雄・民主党総括副幹事長のほか、坂根正弘日本経団連副会長(小松製作所会長)、丹呉泰健・前財務省事務次官と民間人1名と共に、住友化学の名で、日本経団連の米倉弘昌会長の接待宴に招かれていたことが判明した。この問題について「しんぶん赤旗」は、衆議院が1985年(昭和60年)6月25日に議決した「政治倫理綱領」が指摘する「公私混淆」に相当する疑いがあるとしている。

父親の経歴詐称疑惑[編集]

2011年(平成23年)9月3日日刊ゲンダイによると、野田はかねてから「父は(陸上自衛隊の)空挺団員」と明言しており、2005年(平成17年)1月3日の日本経済新聞には「落下傘部隊が降下訓練をしているのをみて育った。その中に父がいた。」との記事が掲載されていた。この経歴について陸上自衛隊OBから疑問の声が上がり、ゲンダイが陸上自衛隊習志野駐屯地に取材したところ「第1空挺団の隊員でなかったことは確かです」 「同じ習志野駐屯地でも野田首相の父親は『業務隊』の所属でした」との回答を得た。

野田の公設第一秘書は日刊ゲンダイの取材に対して、「『もともと空挺団だったけど、足をケガして業務隊に移った』と聞いた」とコメントした。なお、業務隊とは戦闘部隊ではなく、駐屯地の管理業務を行う支援部隊であり、衣類や燃料の確保や隊員の福利厚生を担当する。

「1,000円カット」パフォーマンスに対する抗議[編集]

組閣翌日の2011年(平成23年)9月4日、財務相当時からの行きつけの10分1,000円のヘアカット専門店QBハウス虎ノ門店で散髪し、「庶民派」首相をアピールしたところ、全国理容生活衛生同業組合連合会から「『デフレ脱却』という首相の政治テーマに反する」、「一国の首相たるものが、一企業(QBハウス運営会社)のPRをする形になるのは如何なものか」といった抗議の声が上がった。

また、当日朝に台風12号が上陸していた状況から、「理髪店に行くより首相官邸の危機管理センターに行くのが先ではないか」(自民党幹事長・石原伸晃)との批判も出た。

マニフェスト順守の必要性を訴える映像[編集]

2012年(平成24年)1月、野党時代の2009年(平成21年)衆院選での街頭演説で、当時民主党幹事長代理だった野田が、自公政権がマニフェストに明記していなかった後期高齢者医療制度を発足させたことを挙げて「マニフェストに書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。それがルールです」と力説する映像がユーチューブでながれ話題となったが、首相となった野田は、消費増税の与野党協議に応じない野党側の姿勢を批判して「マニフェストに書いていないことをやるのはけしからんと言われたら、何もできない」と発言していたため、みんなの党代表の渡辺喜美や自民党参院議員の片山さつきから整合性がないと非難された。

「18歳からタバコ」発言[編集]

2012年(平成24年)3月9日、政府の対策に絡み、公明党松あきら愛煙家の野田に「率先垂範して禁煙宣言してはどうか」と迫った。これに対し「いや、参りましたね。喫煙率が下がっていくことは望ましいと思いますが、 私、18歳からずっとやめたことなく貫いてきてしまいました。受動喫煙には気を付けたい」と発言。場内がざわめき、「喫煙は法律で20歳から」という周囲のささやきで問題発言をしたことに気付いた野田は、「あ、すみません、20歳からです」とあわてて訂正した。松は「ここは目をつぶるから、しっかりやって」と決断を促した。

影響[編集]

大修館書店が全国の中高生から国語辞典に載せたい言葉を募集する「第6回『もっと明鏡』大賞 みんなで作ろう国語辞典!」で、事務局オススメ傑作選に「野田る」という言葉が選ばれた。「泥臭く頑張る」「上手にスピーチする」の意という。

家族・親族[編集]

野田家[編集]

(富山県富山市、千葉県船橋市)
  • 家系
父は富山県婦負郡野積村(現在の富山市八尾町水口)の出身。農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。自衛隊の前身である警察予備隊に入隊し、定年で退官するまで自衛官としての人生を歩んだ。習志野駐屯地勤務の折に、母と出会い、結婚。母は千葉県の農家の11人兄弟の末っ子だった。貧乏で結婚式も挙げなかった
野田によると「農家の末っ子同士の間に生まれた子どもが、私です。選挙区が都市部なのにシティーボーイに見えないのは、そのせいかも知れません」という。出生時、係累政治家は誰もいなかった。
  • 父(元自衛官
  • 弟・剛彦(政治家・船橋市議会議員)
  • 妻・仁実
  • 長男
  • 次男

略系図[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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94
菅直人
95
2011年 - 2012年
96
安倍晋三
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第代
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