長妻昭

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長妻 昭(ながつま あきら、1960年昭和35年〉6月14日 - )は、日本政治家民進党所属の衆議院議員(6期)。

厚生労働大臣(第1112代)、民進党代表代行、民主党幹事長代行、民主党代表代行などを歴任した。

「ミスター年金」と呼ばれ満を持して厚生大臣になったものの、何も実績は残せず「ミスター無能」と呼ばれるようになった。

民進・長妻昭氏が国会論戦の追及テーマ募集。しかし、寄せられたのは「二重国籍」「ガソリーヌ」「ラブホ連れ込み疑惑」(2017年2月)[編集]

衆院予算委員会の野党筆頭理事を務める民進党の長妻昭元厚生労働相が、ツイッターで「国会で追及してほしいことをお寄せください」と呼びかけた。ところが、ネットユーザーからは、民進党のあんな疑惑やこんな不祥事の“追及”を求める声が相次いで寄せられた。

1日のツイッターでの呼びかけに対しては、蓮舫代表の「二重国籍」問題や、“ガソリーヌ”こと山尾志桜里前政調会長の政治資金問題、後藤祐一衆院議員の防衛省職員への暴言問題など民進党議員の疑惑や不祥事を追及のテーマに据えるよう求める意見がまたたく間に集まった。

女性をラブホテルに強引に連れ込もうとしたと「週刊新潮」に報じられ党青年局長を辞任した初鹿明博衆院議員や、旧民主党時代、国会の審議時間中に自民党の女性議員を投げ飛ばした津田弥太郎参院議員(すでに政界引退)の名も挙がった。

こういう結果になることを長妻氏は予測できなかったのか…。

来歴[編集]

東京都練馬区生まれ。東京都立練馬高等学校慶應義塾大学法学部卒業。大学卒業後、日本電気(NEC)に入社し、大型コンピューターの営業職を務める。その後日経ビジネスの記者に転職し、主に金融、行政、政治分野を担当した。

1992年大前研一が立ち上げた平成維新の会に参加し、事務局長代理を務める。1995年第17回参議院議員通常選挙に平成維新の会公認で立候補するも、落選。その後新党さきがけに入党し、1996年旧民主党結党に参加する。1996年第41回衆議院議員総選挙に旧民主党公認で東京10区から出馬するが、自由民主党公認の小林興起に大敗。次点も新進党前職の鮫島宗明に奪われ、重複立候補していた比例東京ブロックでの復活もならず落選した。

2000年第42回衆議院議員総選挙では、東京7区に国替えし、民主党公認で出馬。自民党前職で、北海道開発庁長官沖縄開発庁長官を歴任した粕谷茂比例復活すら許さない票差をつけ、初当選(粕谷はこの敗北が遠因になり、政界引退に追い込まれた)。2002年9月の民主党代表選挙では、同じ東京都選出で当時幹事長だった菅直人の推薦人に名を連ねる(菅は岡田克也を破り当選)。2003年第43回衆議院議員総選挙で再選。2005年第44回衆議院議員総選挙では、東京7区で自民党の松本文明に敗れたが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、3選。

2009年5月の民主党代表選挙では、中堅・若手を中心に出馬を期待する声が上がったものの立候補を見送り、副代表を務めていた岡田克也の推薦人に名を連ねた(岡田は鳩山由紀夫に敗北)。同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、東京7区で松本を大差で破り4選。選挙後に発足した鳩山由紀夫内閣厚生労働大臣に任命され、初入閣。あわせて「年金行政の抜本的な見直しを推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣(年金改革担当大臣)を兼務。鳩山の退陣に伴い2010年6月に発足した菅内閣においても、引き続き入閣した[1]

同年9月、菅第1次改造内閣の発足に伴い、厚生労働大臣を退任し、民主党筆頭副幹事長に就任。閣僚経験者の副幹事長への起用は民主党内では異例の降格人事とされ、内閣改造に際して閣僚人事の検討を主導した当時の内閣官房長官仙谷由人は「長妻君の職員からの評判はすこぶる悪い。かと言って、交代させると、ダメという烙印を押すことになる」と周囲に語ったとの報道もある。厚労相退任に際し、長妻自身はわずか1年間での退任に未練をにじませた。

2012年衆議院厚生労働委員長に就任。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では与党に猛烈な逆風が吹き荒れる中、東京7区で自民党元職の松本を破り、5選(松本は比例復活)。なおこの選挙で、東京都の25の小選挙区で当選した民主党候補は長妻と長島昭久の2人だけであった。2013年5月、民主党幹事長代行に就任。

2014年、政調会長代理に再び就任。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、再び松本を破り6選(松本は比例復活)。この選挙により、東京都内で唯一民主党が勝利した選挙区となった。

同年12月末、元農林水産大臣赤松広隆ら党内リベラル勢力の支援を受けて2015年1月の民主党代表選挙に出馬を表明。支持基盤が重なっている元農林水産副大臣篠原孝との候補1本化に成功し、推薦人に赤松や篠原の他、政界での盟友(後述)山井和則、慶応大の後輩で平成維新の会へも共に参加した風間直樹らが名を連ねたが、3位となり決選投票に進めず敗北。岡田執行部発足後は党代表代行に就任した。

厚生労働大臣[編集]

  • 2009年9月17日厚生労働省に初登庁したが、出迎えた職員からは拍手もなく、終始緊張感のただよう初登庁であった。その後の訓示では、民主党の衆院選マニフェスト(政権公約)の冊子を手にしながら、マニフェストを「ある意味、国民と新しい政府との契約書、あるいは命令書と考えてもよい」と訓示した。
  • 2009年9月19日厚生労働大臣として障害者自立支援法の廃止を明言した。
  • 2009年9月25日守秘義務のない民主党政策調査会の職員を、省内の担当部署からの説明時に同席させている問題について、民主党の職員を非常勤国家公務員として採用することで問題を解決する考えを示した。
  • 2009年9月30日閣議について「判子を押してそれで解散という自民党の方式ではなく、閣議の後で懇談会で率直な意見交換を行うようにした」と記者会見で報告した。記者から「自民党も閣議・閣僚懇という仕組みで同じことをしていました。民主党が「形骸化した」と批判していた閣議は参加してみたら実はそうではなかったという趣旨の感想でしょうか」と質問されると、長妻は「マスコミ報道で見た自民党の閣議は、サインをして「はい終わり」というものだった。実際に見たことはないが、民主党のように濃厚な議論はしていないと思う」と回答した。
  • 2009年10月5日、緊急雇用対策に関する指針について取材しようと内閣府の会議室前で待機していたぶら下がりの記者たちを避けるため、貨物用エレベーターに乗り込んで、地下から逃げるように立ち去ったと、週刊文春に報道された。
  • 2009年10月26日中央社会保険医療協議会の後任人事について、自民党を支持する日本医師会の委員枠を実質廃止し、同年8月の総選挙で民主党を支持した茨城県医師会の医師ら3人を選出した。
  • 2009年11月12日日経ビジネスインタビューで「自民党政権だったら、大臣になってもすべてお膳立てが整っている。極端に言えばハンコをつくくらいだと推察されます」と、同年9月30日に述べた自民党への見解を重ねて主張。また予算額について自ら電卓を使っている理由として「最初は自分でやってみないことにはどうにもならないから」、自民党の大臣については「自分で電卓をたたく大臣はいなかったんじゃないか」と語った。

年金関連[編集]

  • 「ミスター年金」と呼ばれた長妻であったが、厚生労働大臣となってからは慎重な発言が多いため、「ミスター検討中」と揶揄する声が挙がった。これについて長妻は、「すぐに結論が出せるものもありますが、じっくりと制度の改革などを考えなければならないこともあります」「(社会保障分野では)きちんと議論をして、それを多くの方の意見を聞いて、段階を踏む必要がある」と釈明している。
  • 2009年(平成21年)9月29日、民主党がマニフェストで反対していた日本年金機構について、2010年(平成22年)1月に発足させる方針を発表した。1078人の民間人の採用手続きが進んでいることや、庁舎移転なども始まっていることから、発足を凍結した場合の影響が大きいと判断した。
  • 2009年10月10日2010年度予算の概算要求で日本年金機構の非正規職員を含めた人件費を、年金記録解明のために増額を求めることを示した。
  • 2009年10月27日社会保険庁が日本年金機構に移行することによって、分限免職される社会保険庁の職員(懲戒処分歴のある職員は年金機構で雇用されずに分限免職となる)数百人を、地方自治体が採用するように働き掛ける方針を表明。
  • 2009年10月、党がマニフェストに掲げた社保庁と国税庁を統合して歳入庁を創設する構想について、年金機構を「つなぎ」とし、4年後には歳入庁に統合する方針を表明したが、[公務員ではない年金機構の職員1万1千人を、歳入庁で公務員に戻すと公約に矛盾しかねないことや、国税庁職員を非公務員とすると、同庁を外局に抱える財務省が猛反発するなどの問題がある。
  • 2009年11月12日年金記録問題について、国民年金加入期間の空白が1年以内である場合や、2年以内で他に未納期間がない場合には、証拠がなくても納付したと認める方針を表明。
  • 2009年11月13日、過去に懲戒処分を受けた社会保険庁の職員を、厚生労働省の非常勤職員として採用することを検討する意向を表明。採用の規模は最低で100人ほどを予定していたが、「(非常勤採用を)自動的にできるという意識は持っていない」として、案を主導した連合と距離を置くことになった。12月1日、過去に懲戒処分を受けた社会保険庁の職員約300人の日本年金機構への移行に伴う処遇について、無許可で労働組合の活動に専従した30人を民間の解雇にあたる分限免職とし、年金記録のぞき見などで処分歴がある約280人については非常勤職員の公募への応募を認めるが、採用は250人に限ることを発表した。野党時代は厚生労働省での採用に否定的で「社保庁職員はハローワークに行け」と主張していたが、平野博文官房長官からの要請に応じたものとみられる。
  • 2009年11月14日行政刷新会議で厚生労働省の立場を説明するために、局長級の官僚を派遣。その議論の様子をテレビで見た「仕分け人に対する局長級の説明能力が低い」と指摘した。
  • 2009年12月28日、厚生労働大臣(当時)である長妻は、懲戒処分を受けていた251人の職員を含めた525人を、分限免職とする方針を決定した。
  • 夫が失業した時に、国民年金の種類を切り替えていない専業主婦が全国に約100万人居るという、主婦の国民年金3号切り替え問題について、2011年3月に、救済方法や法改正をせずに行政裁量で対応させる方針を決定し、同年12月に救済策を定めた通知を課長名で出させた。なお2011年3月8日、衆議院厚生労働委員会で後任の細川律夫は、長妻から引き継ぎを受けていなかったと説明し、通達を出した課長は更迭された。

後期高齢者医療制度[編集]

  • 2009年10月4日、 2008年6月に民主党が参議院に提出して可決させた「後期高齢者医療制度を即時廃止し、老健を復活させる法案」の実現を断念し、自公政権の政策(後期高齢者医療制度の継続と老人保健制度の復活の断念すること)を発表した。
  • 2009年11月9日、2010年度の後期高齢者の医療保険料が平均12%増になることを発表。

母子加算の復活[編集]

  • 2009年9月22日生活保護母子加算を10~11月ごろまでに復活させる方針を発表。
  • 2009年10月8日、生活保護の母子加算を12月までに復活させる方針を発表。母子加算の財源を作るため、災害など緊急時に備える予備費などを割り当てる方針を発表。
  • 2009年10月14日、母子加算の財源を作るため、「子育て応援特別手当」(3歳未満の児童手当が5000円から10000円にされた時に「すきま」年齢としてすりぬけた児童を対象に1回限り3万6千円を支給する政策)を支給停止することを決定。
  • 2009年(平成21年)10月22日、母子加算の財源を作るため、「ひとり親世帯就労促進費」(月に3万円以上収入を得た場合に1万円を支給し、自立に向けて努力しているひとり親世帯を支援する制度)を廃止する方針を発表。

子ども手当[編集]

子ども手当の意義や目的については平成23年度の制度設計で検討するとした。

平成22年度版厚生労働白書[編集]

2010年8月27日 平成22年度版厚生労働白書を閣議決定したが、巻頭に厚労行政について「お詫び」したり、巻末に「厚生労働カルタ」を添付した異例の内容であった。長妻は自身のホームページでも「ながつまカルタ」を掲載しており、白書でのカルタ添付も長妻が指示し、意向が強く反映された形となっており、省内からは「まるで長妻白書だ」(幹部)との声も漏れていた。

代替医療関連[編集]

  • 長妻は、2010年1月28日予算委員会において「統合医療の省内でプロジェクトチームをつくりまして、これを一本にまとめていくということで検討していくということであります。統合医療は、もう言うまでもなく、西洋医学だけではなくて、伝統医学、漢方、鍼灸、温泉療法、音楽療法、芸術療法、心身療法、自然療法、ハーブ療法、ホメオパチー(原文ママ)などいろいろな広がりがあるものでございまして、厚生労働省といたしましても、この22年度の予算でかなりこれまで以上に、研究分野の統合医療の研究について十億円以上の予算を計上しまして、その効果も含めた研究というのに取り組んでいきたい」と答弁した。
  • 2010年8月24日日本学術会議ホメオパシーに関する会長談話を発表した。これを受けて、長妻は「本当に効果があるのかないのか、厚労省で研究していく」と述べ、ホメオパシーを含む代替医療に関し、聖路加国際病院の福井次矢院長を主任研究者とする研究班を設置した。

相対的貧困率の公表[編集]

2009年10月20日、長妻は日本政府として、初めて相対的貧困率が、「国民生活基礎調査」を基に試算した経済協力開発機構(OECD)によるものと「全国消費実態調査」(総世帯)で公表されているものとの間には乖離が確認されており、解釈には幅を持たせる必要がある。また「全国消費実態調査」(総世帯)に基づいて算出したジニ係数にみられる高齢者層の所得格差の拡大は、高齢者世帯比率の上昇が主な要因であったことを示している。ただし高齢者層のジニ係数の格差水準は低下傾向にあることを公表した。日本メキシコトルコアメリカ合衆国に次いで4番目に高い。自公連立政権が貧困率の公表を避けてきたのは、削減目標設定を余儀なくされることを嫌ったことが一因とされるが、長妻は数値算出を指示するとともに「ナショナルミニマム(政府が国民に保障する最低限の生活水準)研究会」を発足させた。毎日新聞は長妻について、社会保障制度改革で実績を上げることができなかったが、貧困と向き合ったことは成果に挙げることができる、としている。

若手プロジェクトチーム[編集]

厚労相就任後、長妻の肝煎りで発足させた「若手プロジェクトチーム(PT)」が、平均年齢33歳の職員34人が6チームに分かれて、業務効率化やサービス改善策について無記名のアンケート調査を行った。

その結果、「現在仕えている上司について、当てはまると思うものはどれか(複数回答)政務三役」というアンケート項目に対し、「(政務三役の)おごりを感じる」と答えたのは48.0%であった。また、自由意見に「政務から優先順位がなく現実的なスケジュール感のない宿題が山ほど出されていることが、問題」などがあった。

2010年7月28日、このアンケート結果の報告会に出席した長妻は、この結果に対し沈黙したが、長浜博行厚生労働副大臣は「『おごっている』の意味が一体何を指しているのか。政治家は国民意識から離れている場合は選挙で負けるが、公務員にはそういった機能がない」と反論した。職員の本音を突きつけられた長妻は「提言してもらった方々の勇気と労力に敬意を表します」と語った。

政策・主張[編集]

質問主意書[編集]

  • 内閣に対する質問主意書の提出を積極的に行っている。3期目(2005年9月から2009年7月まで)の提出回数は、全衆議院議員中4番目に多い。
  • 質問主意書は通常、1週間以内の回答を制度上義務づけられているが、「期間内で回答は不可能」として回答を拒否されたことがある。
  • 2004年8月5日記者会見で、細田博之内閣官房長官(当時)は長妻の質問主意書を手に取り、「『自分は質問主意書日本一だ』と自慢して、選挙公報に出している人までいる。非常に行政上の阻害要因になっている」と指摘した。また翌2005年2月7日衆議院予算委員会における審議中、細田官房長官は質問主意書の答弁書作成について「これが大変なサービス残業になって、しかも、エリートでない官僚のことで」と発言。長妻はこれに対し、2008年12月1日に「質問主意書の答弁書作成等に関する質問主意書」を提出した。
    • 長妻の質問主意書に関し、東京大学先端科学技術研究センター特任准教授の菅原琢は、官僚である自身の友人たちから最も忌み嫌われているのは長妻であり、長妻による質問への答弁書の作成は膨大な作業量を要するものばかりであったのは疑いようがないとしている。その一方で、質問への答弁を一律簡略化、無意味化するという政府の対応は、あまり合理的ではない。重要な論点を含んでいるのなら積極的に取り組むのが政府としてもおそらく合理的であるとも主張。最後に「いずれにせよ、質問主意書制度は質問と答弁が一体となって国民の側に利益とコストをもたらすものである。したがって、質問と答弁をセットで観察していきたいところである」とまとめている。

外交・安全保障[編集]

内政の諸政策[編集]

人物[編集]

人物像[編集]

人物評[編集]

  • 自民党から民主党への政権交代後、厚生労働省の組合員の52.9%が「残業時間が増えた」と回答している。政権交代後、厚生労働省の職員は1人当たり月平均70時間の残業を強いられる形となり、全省庁で最多となっており、過労死の危険ラインとされる月80時間を超える残業をした人が191人に登ったが、大臣の指示が細かくかつ多すぎるのが、残業が増える原因との指摘がある。JCASTニュースは、厚労省職員の多くが長妻に不信感を持っているなどと報じた。大臣室に局長らを集めた際、机の書類が床に落ちたことがあった。毎日新聞は、長妻は「上に立つ大臣は取っちゃいけない。君たちが拾わなきゃいけないんだよ。私とあなた方はそういう関係です」と発言した、と報道したが、長妻本人は自著でこの発言を否定。自身がこの記事を読み、「びっくりした」と述べた。長妻の就任後半年で、省内に出す指示は約1000件に達した。この指示は年金問題や後期高齢者医療制度など政策に関するものが多かった。長妻が民主党筆頭副幹事長に異動後、産経新聞は「長妻氏が目指した厚労省改革、年金の改革・是正も具体的な成果は挙げられなかった」と批判した。長妻のあとは副大臣だった細川律夫が昇格したが、産経新聞は、細川就任後、官僚に不信感をもたらした長妻のカラーは急速に薄れた、と報道した。
  • 森田実は「記者の経験がある長妻は自分で取材、調査しており、勇み足がない」と評している。
  • 経済コラムニストの山口正洋は「日本経済を立て直してくれそうな政治家」の2位に長妻を選んでいる。
  • 大前研一は、官僚と上手に折り合いをつけていた前原誠司に比べて長妻には真面目すぎる側面があるため、官僚からの受けは良くなかっただろうとしている。その一方でマスコミの論調は長妻を非難する傾向が強いが、長妻の政治家としての力量とは無関係に報道機関の企業体質に依るところも大きいと指摘。国民はこうした報道機関と政治家の関係を知った上でニュースを読み解くように心がけるべきであり、報道内容をそのまま鵜呑みにしてしまうと大きな勘違いをしてしまうと忠告している。
  • 2015年の民主党代表選挙では、日本教職員組合との強い結びつきのほか、日本郵政グループ労働組合への挨拶など官公庁の支持を受けるために奔走する様変わりした姿が読売新聞で報じられた。

国会会議録削除問題[編集]

2007年10月衆議院厚生労働委員会における長妻の「与党というものは一度でも(政府の)不祥事を追及したことがあるのか」という発言が、自由民主党茂木敏充厚生労働委員長により会議録から削除されていたことが判明した。これに対し、長妻は2008年2月8日、衆議院予算委員会で「今は戦前ですか?戦時中ですか!」と与党を批判し、削除された発言の復帰を求めた。その後も国会において再三抗議し、記録の回復を求めた。2008年3月26日茂木敏充厚生労働委員長は長妻の発言は議場からの不規則発言に対して発言したものであるため、「発言者は、私語に応酬することができない」としている本会議先例集に基づき削除したと説明した。通常こうした行為は理事会の合意を得て行うのが慣例であり、委員長の職権で削除したのは極めて異例。国会の会議録削除は野中広務の発言以降、11年ぶりであった。2008年5月14日28日の厚生労働委員会では、長妻が同委員会に配布予定にしていた資料(「発言者は、私語に応酬することができない」という理由で委員の発言を削除した先例は衆議院と参議院でもなかったとする資料2枚)を理事会が配布しなかったことについて抗議し、説明を求めた。茂木敏充委員長は理由として「理事会で不適切と判断された」「他の委員や参考人は(資料を)自分で配っている」などと説明した。

所属議員連盟[編集]

著書[編集]

  • 『マンガで読むびっくり仰天!年金浪費―「福祉」という名のブラックホールを塞げ!』(赤池キョウコとの共著) ISBN 4766208536
  • 『「消えた年金」を追って―欠陥国家、その実態を暴く』 ISBN 4576071289
  • 『闘う政治--手綱を握って馬に乗れ』(講談社・単行本)ISBN 978-4-06-214980-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 「人事異動」『官報』号外特17号、国立印刷局2010年6月8日、1面。