G・H・キアット

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G・H・キアット英語G. H. Kiat中国語呉佛吉、生年不詳 - 没年不詳)は、シンガポール政治家日本軍占領下のシンガポールで、昭南体育協会の主席となり、戦争末期には昭南特別市の疎開本部によるマレー半島北部への住民の「疎開」事業に協力した。戦後も緒方信一らと親交があった。

経歴[編集]

家業としては、有名な文房具店を経営していた[1]

1942年2月15日にシンガポールが陥落した後、18日に憲兵隊に拘束され、中央警局に20日間監禁され、水間中尉の尋問を受けた[2]

同年7月に日本軍当局の指示で昭南体育協会を組織するために呼ばれ、主席に選ばれる[3]

その後、福利部の裏方の職に就いた[2]

その後、ジョホール州エンダウ(新昭南)で1万名の華僑の福利事業を管理[2]

  • 山田 (1987 41)によると、1945年4-8月頃、昭南特別市厚生課に設置された昭南特別市疎開本部に協力して働いていた。市会議員を務め、住民の信望を集めていたという。

緒方信一との関係[編集]

1956年に婦人と娘が東京を観光に訪れた際に緒方信一夫妻に世話になり、1958年に緒方がシンガポールを訪問した際には、その返礼のため緒方の歓迎会を開いて、友人だった荘恵泉を同会に呼び、また緒方の訪問を新聞で大々的に告知して、緒方信一つるし上げ事件のきっかけを作った[2]

家族[編集]

息子が2人いたが、戦時中に死亡[2]

  • 長男・呉悉尼は19歳のとき、命令を受けて木造船でバンコクからシンガポールへ米を運ぶ途中、爆撃を受け死亡[2]
  • 次男・呉亜九は17歳のとき、イポーの抗日軍に参加し、下山したときに日本軍によって刺殺された[2]

この他に長兄の一人息子で呉の秘書をしていた呉武[口力]は義勇軍に参加したまま行方不明になり、妻の弟・陳鋒偉も戦時中に亡くなっている[2]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 山田 1987 41
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 南洋商報 1958-08-09
  3. 南洋商報 1958-08-09 。当時5千人近い会員がいた(同)。

参考文献[編集]

  • 山田 (1987) 山田勇「第I部 経済学と私」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.9-139
  • 南洋商報 (1958-08-09) 南洋商報 因緒方事件恐人誤會吳佛吉發誓申辯 南洋商報 8 [ arch. ] 2016-03-05