アドルフ・ヒトラー

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アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)はドイツ政治家

国家社会主義ドイツ労働者党党首として民族主義反ユダヤ主義を掲げ、1933年首相となった。1934年ヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首に就任。正式の称号は「指導者兼国首相」であり、これは通例、総統と邦訳されている。軍事力による領土拡張を進め、第二次世界大戦を引き起こしたが、敗色が濃くなると自殺した。「指導者原理」を唱えて民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、独裁者の典型とされる。

経歴

出生

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ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインとともに

1889年4月20日オーストリアに在る小さな町(ドイツとの国境近く)、ブラウナウで税関吏の子として生まれる。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家であった(認知した父の姓はヒードラーであったが、ヒトラーと改姓。ドイツ人では珍しいが、ヒトラー、ヒドラ、ヒュードラなどの姓はチェコ人に見られる)。

アドルフはアロイスの三番目の妻クララ(アロイスの姪と言われている)との間に生まれた。兄弟姉妹に異母兄アロイス2世(私生児、1882年 - 1955年、1896 年に家出)、異母姉アンゲラ(1883年 - 1949年)。同母兄グスタフ(1885年 - 1887年)、同母姉イーダ(1886年-1888年)、同母兄オットー(1887年 - 数日後死亡)、同母弟エドムント(1894年 - 1900年)、同母妹パウラ(1896年 - 1960年)がいた。

名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗った。アドルフという名前は、ドイツではそれほど珍しい名前ではなかったが、ヒトラー政権下は人気がある名前となる。しかし、戦後は一転して不人気な名前となった。

小学校のころ、後に哲学者となるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが同じ学校に在籍していた。2人が1枚の写真に一緒に写っている写真がある。

当時のヨーロッパでは珍しくないことであったが、アロイスは非常に厳格で、自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供達に鞭を振るった。特に、長子アロイス2世が家出をした後は、アドルフに非常な期待を込め、厳しく躾た。少年時代のヒトラーは成績不良で2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの直感に頼り、努力が足りない」と評されている。1903年、厳しかった父を亡くした後は学業を放擲し、画業に専念する。

美術学生

1905年、実業学校を退学した後ウィーンで画家を志し、美術大学を受験するが2回とも失敗。教授に作品を見せたときには「君には建築家のほうが向いている」と助言を受ける。その画風は写実的だが独創性には乏しかったとされ、画題として人物よりは建築物や廃墟などの風景などを好んだ。

1907年には母を亡くしたが、ウィーンでの生活は両親の遺産や自作の絵葉書の売り上げなどによって比較的安定していた。このころのヒトラーは独身者むけの公営寄宿舎に住み、食費を切り詰めてでもオペラ座に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔した。彼は毎日図書館から多くの本を借りては独学する勉強家だったと言われ、偏ってはいるものの歴史や哲学・美術などに関する豊富な知識と、ゴビノーチェンバレンらの提起した人種理論反ユダヤ主義などを身につけた。また、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えた。

かつて、歴史家の間では「ヒトラーは両親の遺産を食いつぶし、浮浪者収容所に入ることになった」という説が有力であったが、実際のところヒトラーが生活していた公営寄宿舎はかなり贅沢な施設であった。歴史家が誤解した原因は、ヒトラーが自著『我が闘争』において若い頃に貧乏生活をしていたかのような描写をしたからと思われる。ヒトラーは若い頃の苦労を誇張するために『我が闘争』にこのような誇張した描写を入れたのであろう。

大戦とドイツへの移住

1913年オーストリア・ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住する。1914年に当局に逮捕されたが検査で不適格と判定され兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦で、(大ドイツ主義的)愛国心から熱狂した彼は、また停滞した人生や貧困を打破するためもあって、オーストリア国籍のまま(ドイツ国籍取得は1932年)バイエルン領(1918年まで、バイエルン王国の主権を保持したまま、ドイツ帝国の一領邦として存在した)の志願兵として入隊し、西部戦線のバイエルン後備第16歩兵連隊に配属された。

緒戦の8割前後の死傷率の中を生き抜き、後に伝令としての技能を発揮、大戦も終わりに近い1918年8月には一級鉄十字章を授与された。ヒトラーは司令部付きの伝令兵であったため、優秀な働きぶりにもかかわらず叙勲が遅れたのである。しかし結局、階級は伍長勤務上等兵(翻訳により上等兵~伍長と日本語表記にバラつきがあり、帝政ドイツ軍のGefreiterは下士官ではなく上級の兵卒であるが、戦前から現在まで語呂の良い『伍長』…ドイツ陸軍ではUnteroffizier…と訳されることが多い)止まりであった。当時のドイツでは優秀な下士官やベテラン兵卒が戦死して不足しており、伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋った事と、勇敢ではあるが、直属の上官に対し戦功を「自画自賛」する態度と「指導力」の欠如が昇進につながらなかった理由として挙げられている。

ドイツ帝国敗北の知らせを聞いたとき、ヒトラーは塹壕戦での毒ガスで神経をおかされ一時的に視力を失い病院にいた。毒ガスの特性によって脳神経に一過性の傷害を負い、また精神的にも傷ついたヒトラーはヒステリーと診断され、軍医により催眠術による治療を受けた(このためか、第二次大戦では自軍による前線におけるガスなどの化学兵器の使用を、敵の報復攻撃による損害の大きさも考慮して厳禁している)。『我が闘争』によればこのときヒトラーは祖国の誇りを取り戻すために、建築家を目指すことを放棄し、政治家を目指すようになったという。喉の負傷による声の変化は戻らなかったため、後の演説にみられるような独特の野太い声になった。

また、この時期にヒトラーはミュンヘン革命に参加している[1]。革命の間、ヒトラーはレーテ活動家になり、代表代理にまで昇進した。この経験が、後の社会主義への確信や革命家としての自負に繋がったと言える。

政治活動

ヒトラーは敗戦後も軍の情報関係の仕事を続け、激増した新党の調査を担当していた。その一環として参加した「ドイツ労働者党」の集会で演説者をやり込めたのが党議長の目に留まり入党する。50人程度の小党であったがその理念に共感し、1920年には軍をやめ党務に専念するようになる。この頃、すでにヒトラーは演説者としての能力を認められており、軍からプロパガンダの講習を受けている(この講習会はドイツ国防軍第4集団、即ちバイエルン国防軍の情報課が企画したもので、反共主義民族主義の宣伝活動家の養成を目的としたものであった。ここでヒトラーは生まれて初めて大学の教室で右翼大学教授知識人の講義を聴くこととなった)。

このなかでもヒトラーの弁舌は興奮してくるとますます冴え、聴衆を引き込むヒトラーは優れたプロパガンダの才能の持ち主であった。その扇動的な演説によって多くの党員を獲得し、党の要人となったヒトラーは、退党をほのめかすなどして上層部に圧力をかけ、独裁を認めさせる。党名を国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP、対抗勢力による通称ナチ)と改め1921年7月29日その党首となる。この頃の大日本帝国では、ヒトラーは「ヒットレル氏」として新聞報道で紹介されていた。

ミュンヘン一揆

詳細は ミュンヘン一揆 を参照
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ヨーゼフ・ゲッベルス

1923年11月9日、党勢を拡大したナチ党はミュンヘンで政権の奪取を目論みクーデターを起こす。これは前年にイタリアファシスト党が行ったローマ進軍を真似て行われたものだったが、警察・軍隊いずれの協力も得られず、やむなく前大戦の英雄ルーデンドルフを担ぎ出すが失敗し、州政府によって鎮圧された。この「ミュンヘン一揆」、あるいは「ヒトラー一揆」と呼ばれる事件によってヒトラーは逮捕され、党も非合法化される。逮捕の後、禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受け、この期間にルドルフ・ヘスによる口述筆記で『我が闘争』が執筆されている。

禁錮5年を宣告されたが判決から9ヵ月後の1924年12月20日に釈放され、翌1925年2月27日には党を合法政党として再出発させた。また同1925年にオーストリア国籍を捨てた。

この頃、党内左派で後に宣伝大臣となるヨーゼフ・ゲッベルスが頭角を現した。ゲッベルスは「日和見主義者」としてヒトラーの除名を目論んでいたが、ヒトラーは巧みな弁舌と説得でゲッベルスを味方に引き入れることに成功し、除名を免れている。

権力闘争

その後ヒトラーは合法路線で徐々に党勢を成長させる。当時のドイツは第一次世界大戦の賠償金負担と世界恐慌による苦しい経済状況が続き、大量の失業者で街は溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。その中でヴェルサイユ体制の打破を訴えアジテーターとしての才能を発揮したヒトラーは圧倒的多数の支持を得て、党内左派(ナチス左派)最大の実力者グレゴール・シュトラッサーとの権力闘争に勝利(粛清)した。

共産党の排撃を訴え、ソ連のような事態を恐れる資本家からも援助を受けて力をつけたヒトラーは、1932年に正式にドイツ国籍を取得し、大統領選に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、共産党テールマン、国家人民党ディスターベルクが立候補をし、選挙ではヒンデンブルグ1865万票、ヒトラー1339万票でヒトラーは30%の票を獲得。第二回の決選投票でもヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票。ヒトラーは敗れるが37%の票を獲得する。

国家元首就任

ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党が比較第一党になった。同年11月にはフランツ・フォン・パーペン内閣に対する抵抗としてドイツ共産党と共にベルリンでの大規模な交通ストライキを支持しながら選挙を迎え、議席を減らすと見るやストライキを弾圧し、自派新聞で自らの立場のドイツ共産党との違いについて長弁舌を振るっている。国家人民党との連立により、1933年1月30日、ヒトラー内閣が発足した。

内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生(ドイツ国会議事堂放火事件)。その直後から共産党員や反ナチ的人物が次々に放火の疑いで逮捕された。翌28日にヒンデンブルク大統領に大統領緊急令である戒厳令を発令させた。戒厳令下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、過半数は獲得できなかった。

1933年3月24日にヒトラーは共産党の議席を剥奪、また当選した共産党員や社会民主党員が議場に入ることをナチス突撃隊によって妨害させ、少数政党に賛成を強要し、かつ共産党員の当選を無効にすることで、3分の2の賛成を確保し、「全権委任法」を制定。1934年6月30日には「長いナイフの夜」によって突撃隊の参謀長エルンスト・レームを初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清し、独裁体制を固める。

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ムッソリーニとともに(1934年)

1934年6月14日には、自らの政権運営の手本としていたイタリア首相ベニート・ムッソリーニと初会見しているが、ヒトラーを新参者と見下していたムッソリーニは、このときヒトラーを「道化者」と評している。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定して国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体、さらに、8月19日国民投票を行い、89.93%という支持率を得てヒンデンブルク大統領の後任として国民の承認を受けた。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領 (Reichspräsident) という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。公式文書には「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)という名称を用いた。これ以降、国家元首と政府首班の二役を務めたヒトラーを、日本語では「総統」と呼ぶ。

経済政策

1933年2月1日、ヒトラーはナチ党の初期からの支持層で恐慌に喘ぐ農民を救い、失業を解消すると公約した(第一次四カ年計画)。しかし、ヒトラー自身が「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである」(Hans-Joachim BraunのThe German Economy in the Twentieth Century;Routledge 1990 p.78)と言ってるようにヒトラーは『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎く[2]、当初訴えていた政策もユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分するという粗末なものだった。

ヒトラーは1923年インフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトを経済大臣に迎えた。シャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるクルト・フォン・シュライヒャーの計画を継承し、公共土木事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(Grossraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言する。

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ベルリンオリンピックの聖火

外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日にヒトラーはゲーリングの第二次四カ年計画を支持した。シャハトは猛反対したため、ゲーリングらは経済省から独立した四カ年計画庁を創設する。第二次四カ年計画により、1936年にはほぼ完全雇用になった。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。

ドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られ、ヒトラーは前者に決めた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、このことに関してアルベルト・シュペーアは第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻すると思ったという。1944年には軍事費は当時のヨーロッパでは最高で、ドイツ経済のほとんどを占めた。1945年に戦争経済は敗戦と同時に崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。

その一方で、カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年にヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラ開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊及び物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップダイムラー・ベンツメッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を実現させた。また、これまでオリンピックの開催に消極的だったヒトラーがゲッベルスの説得に応じ、1936年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を成功させた。

ユダヤ人迫害と「生存圏の拡大」

ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和するものの、国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化してゆく。1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策が本格化してゆく。

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ウィーンを訪れたムッソリーニとヒトラー(1939年)

また一方でスペイン内戦への介入、「ニュルンベルク法」制定、ラインラント進駐などの政策を実行し、合わせて大日本帝国とイタリアとの間に日独伊三国軍事同盟を結び、ヒトラーが唾棄していたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦に対抗するなど、ヒトラーは着々とナチズムに基づくドイツを作り上げていった。その最終目的は『我が闘争』に示されたように東方における「生存圏」の獲得であった。

その後周辺国の数回にわたる併合(1938年オーストリア1939年チェコスロバキア)を行う。これらのドイツの動きに対してイギリスやフランスアメリカなどは懸念をするものの、直接的な軍事対立を避けるために事実上黙認していた。

その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、ネヴィル・チェンバレン政権下においては軍備を整える時間稼ぎのため、ミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。このためヒトラーはチェコの実質的な併合などの領土拡張政策を推し進めることになる。

第二次世界大戦

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独ソ不可侵条約に調印するソ連外相のモロトフ。後列の右から2人目はスターリン

ヒトラーは更にポーランドに対して、ダンツィヒ自由市及び東プロイセンとの間の回廊地帯を要求したが、ポーランドは英仏の保証を受けて抵抗した。こうした中、1939年8月23日にヒトラーは宿敵であるはずのソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせ、直後の9月1日ポーランド侵攻を開始した。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。1940年7月31日には国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる。

ドイツ軍は空軍の支援の下機甲部隊を主力とした電撃戦によってポーランドをたちまち占領した。1940年に入ると、デンマークノルウェーを相次いで占領し、更に西部ではベネルックス三国の制圧に続いてフランスを打倒してヒトラー自ら第一次大戦の降伏文書の調印場である因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との談判にのぞんだ。しかしイギリス侵攻はバトル・オブ・ブリテンでの敗北により果たせなかった。

1941年にはユーゴスラビアとギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。同年6月22日に始まったソ連侵攻のバルバロッサ作戦においては12月にはモスクワまであとわずかのところまでに迫る勢いであったものの、補給難と冬の到来によってドイツ軍の戦力は限界に達し、後退を余儀なくされた。ヒトラーは陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥を解任して自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁して、何とか戦線の全面崩壊は免れた。

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強制移送されるユダヤ人
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スターリングラード攻防戦

日本軍によるイギリス領マレー半島侵攻と、それに続くアメリカ、ハワイ真珠湾攻撃の直後の1941年12月11日の演説では「我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と日本を賞賛し、日本に続いてアメリカに宣戦を布告した。また、1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示し、ドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストを本格化させた。しかし、実際にユダヤ人滅亡作戦を口頭で指示したものの、ヒトラーがユダヤ人絶滅自体を命じた証拠書類は存在しない為、その時期や命令方法については、研究者によって見解が違っている[1]

その後、開戦から3年目に入った1942年には、再び東部戦線と北アフリカでドイツ軍は攻勢に転じたが、やがて、東部戦線でのスターリングラード攻防戦アフリカ戦線でのエル・アラメインの戦いなどでの敗北により、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなり、1943年には東部戦線でのドイツ軍の最後の大攻勢であるクルスクの戦いでの攻勢失敗や、枢軸国の一員であったイタリア・バドリオ政権が降伏して連合国の側につくなど苦しい立場におかれた。ヒトラーは大戦末期は「狼の巣」と名づけた地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発による奇跡の大逆転を望む日々を過ごした。1944年には、ノルマンディー上陸作戦の成功による西部での第二戦線の確立と、東部戦線でのソ連の大攻勢(バグラチオン作戦による中央軍集団の壊滅)などにより、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。

ヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリッヒ・フォン・マンシュタインハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

1944年7月20日、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐による爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡・負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将を始め4,000名に及んだ。また、エルヴィン・ロンメル元帥と、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥も、かかわりを疑われて自殺を強要された。

敗北

1944年12月からのアルデンヌ攻勢では、連合国軍を一時的に大きく押し戻し、ヒトラーの賭けは一時的には成功したかに見えたが、結局は物量に勝る連合国軍に圧倒され、ドイツ軍最後の予備兵力をいたずらに損耗する結果となった。その後ライン川を突破されたドイツ軍は、ヒトラーの命により3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量の前に失敗する。

この主要戦線から離れた所で行われた、軍事的に無意味な作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、アルベルト・シュペーア軍需相は聞き入れずほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。

敗北が迫ると、ヒトラーは七年戦争におけるフリードリヒ大王ブランデンブルクの奇跡を引き合いに出して、最後まで勝利を信じて疑わなかったという。ちなみに、大戦中にパーキンソン病を患い、思考能力が衰えたとされている(パーキンソン病は認知症を併発することがある)。

大戦中を通じてヒトラーは、しばしば政治上の必要性を重視するあまり戦略的に意味のない地域の確保にこだわったり、無謀な拠点死守命令を出したりして敗北の原因を作った。また形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係が険悪になった。しかし、自殺前に行われた最後の声明に到っても、戦争に負けた原因を国防軍にあるとして非難した。

自殺

1945年4月29日に、ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と結婚式を挙げる。その翌日、総統官邸地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。ヒトラーの地位の後継は遺言によって、大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党首にマルティン・ボルマン党官房長をそれぞれ指名している。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用いたが(毒を仰いだという説もあり、真相は不明)、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却されたため、死亡は側近らの証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった(この数年後ヒトラーの遺灰はソ連の飛行機によって空中散布された)ため、西側諸国にはヒトラーの死亡に関し疑わしい部分が残り、後に「同盟国である日本の潜水艦で逃亡した」、「戦前から友好関係を保っていたアルゼンチンチリなどの南米諸国に潜水艦で逃亡した」といったヒトラー生存説が唱えられる原因となった。

また、スターリンも、その死体が本当にヒトラーのものであると確信が持てず、イギリスとアメリカ軍が密かにヒトラーを匿っているのではないのかと疑心暗鬼におちいった。そのため、米英ソ軍とも戦後しばらくヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べている。

なお、自殺に使われた銃は、ヒトラー専用のワルサーPPKと言われているが、遺体に残っていた傷跡は一回り大きい9ミリ弾のものであったため、ヒトラー暗殺説もささやかれている。

ヒトラー生存説

ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの友好国の協力を受け、イタリアやスペイン北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦「U977」のハインツ・シェッファー艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいいかげんな生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に正式に否定されている。

それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国大日本帝国にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道(1992年フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。この生存説を主題にした作品の1つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。その他、TO諜報機関のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」と言うものもあるが、信憑性は無い。

俗説と言われているが、晩年のスターリンが「ヒトラーが生存しているのではないか」といううわさが立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻したとされている。

『我が闘争』

ナチズム聖典というべきヒトラーの著書『我が闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたとも言われている。

その内容は自らの半生と世界観を語った第一部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第二部「国民社会主義運動」の二つに分かれる。この中でヒトラーはアーリア民族人種的優越、東方における生存圏の獲得を説いており、後に同盟をくむ日本もまた二流民族として扱われていた(詳細は下記参照)。

哲学者ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーのマッチョ的な完全支配のような考えを、「力こそがすべて」という本書から誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘される。また日本でも翻訳版が出版された。但し、ヒトラー自身は、後に「既に過去の著作物であり、必ずしも現状とは一致しない」旨のメモ類を残しているらしいが、ナチス政権時のサーキュレーション数字からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことが終始確認されている。なお、現在のドイツでは『我が闘争』は反ナチ法(扇動法)に基づき発禁本のリストの中に入っている。

ヒトラー=ユダヤ人説

疑問

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アロイス・ヒトラー

ヒトラーの父アロイス・ヒトラー(シックルグルーバー)の出生には不明な点があり、ヒトラー=ユダヤ人血統説の根拠となっていた。手塚治虫のフィクション漫画『アドルフに告ぐ』では物語のメインテーマとなった。異母兄アロイス2世の子であったパトリック・ヒトラーが英米のマスコミに「アロイスの父親がユダヤ人である可能性がある」と吹聴したことが原因であるという向きもあるが、ヒトラー生存中からそれは根強く存在した。ただ、そこには生存中はヒトラー政権へのダメージ、死後はヒトラーの犯罪性の緩和に利用する政治的意図があるのかもしれないと言われている。

ヒトラー自身もこのことをかなり気にして、当時ヒトラーの顧問弁護士であったハンス・フランク(後のポーランド総督)に調査を命じている。ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人ではないかと案じたせいか、調査はヒトラーの命令で中止されたという。

グラーツ大学教授のプレラドヴィクの戦後の研究では、この地方に1956年以前にユダヤ人が居住していたという記録がないという理由をあげて、ヒトラーの祖父がユダヤ人だった可能性はないとしている。

父の出生

ヒトラーの父親、アロイス・ヒトラー(シックルグルーバー)は1837年6月7日に、彼の母親(ヒトラーの父方の祖母)マリア・アンナ・シックルグルーバーの私生児として、奉公先のフランケンベルガーまたはフランケンライターという裕福なユダヤ人の家庭で彼女が召使をしていた時に生まれたとされていた。しかし住民台帳に記載されているフランケンベルガー家は地元バイエルン系のカトリック教徒であり、しかも当時は没落し貧乏になっていた。現在も父親は誰なのか判明していない。

やがて、アロイスが5才になる時に旅まわりの粉挽き職人のヨハン・ゲオルク・ヒードラーとマリアは結婚したが、マリアはその5年後病死した。継父ヨハンは出奔したためにヒードラーの弟ヨハン・ネポムクにアロイス・シックルグルーバーは育てられた。1876年アロイス・ヒトラーと不法に名前を変更した(理由は不明だが、認知によってアロイスはヒトラーと改名した。しかし、法的には故人が父となる認知は訴訟によるほか認められず、しかも、母親が証言することが要件であるので、認知は手続き的には不法なものである)。ヒードラーではなくあえてヒトラーと改名したことも、当事者達や教会の間で真実でない何かを彼らが知っていたことを疑わせる根拠との指摘がある。ただし、このことについては単に言いやすい呼び方に変更したとの立場もある。

ヒトラーと反ユダヤ主義

ヒトラー本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された生粋の反ユダヤ主義者と見なされる傾向が強い。しかし、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつ反ユダヤ主義に心酔したのか判断するのは難しい。だがヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安くしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して差別感を抱くようになったという説もある。なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師はユダヤ人であった。この医師は後にユダヤ人迫害が開始された後も手厚く保護され、その後外国に解放された。

ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン時代に反ユダヤ主義者になったと見られているが、ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されている。また、ヒトラーを鉄十字章叙勲のために推薦した上官もユダヤ人であった。戦後ヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人もユダヤ人で、ヒトラーはユダヤ人管理人が作った食事を食べながら党幹部と打ち合わせを度々行っていた。党勢の拡大とともにヒトラーはそのアパートを引き払った。

ナチス政権下で、名誉アーリア人としてドイツ空軍大将(最終階級は空軍元帥である)になったエアハルト・ミルヒはユダヤ人であったという説がある。

ヒトラーは自分に対して恩のある人間にはユダヤ人であっても例外的に扱ったという説もある。 1943年4月7日、ヒトラー・ユーゲント指導者シーラッハ夫人のヘンリエッテが、ドイツの占領下に住むユダヤ人が次々と逮捕されて列車に詰め込まれていることについて、ヒトラーが知らないところで行われていると信じ、ヒトラーに善処を訴えた。それに対しヒトラーは激怒し、「その問題にあなたが口を挟む権限はない」と言い、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。

女性関係

ヒトラーは死の直前まで結婚しなかったが、それは政治家として女性からの支持を得るには独身のほうが都合がよいと考えていたためだという。ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人とみなした。姪のアンゲラ(ゲリ)・ラウバル近親相姦関係にあったという説が唱えられているほか、ヒトラーからアプローチをうけたと称する女性も少なくないが、確実にヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ(エーファ)・ブラウンのみである。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月はじめのことで、ナチ党専属写真師ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。しかし結婚を望むエヴァにヒトラーは応えなかった。1932年11月1日エヴァはピストル自殺を図ったが未遂に終わり、このとき自殺に失敗したエヴァが呼んだ医師は写真師ホフマンの義弟だったためにこのスキャンダルは内密におさまった。一般の病院に連絡しなかったという配慮にヒトラーはいたく感動し、以後二人の関係はいっそう深まった。エヴァは正式な結婚をあきらめ、恋人としてひたすらヒトラーを待つ生活を忍ぶことになる。この関係は生涯続き、ベルリンの陥落が間近に迫ったときもエヴァはヒトラーの元に留まっている。1945年4月29日結婚し翌日自殺したが、周囲の人々にはとうとう結婚できた自分の幸せを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語ったという。

また、第一次世界大戦の時、部隊の駐屯地であったフランス北部サンクァンタンで現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたとの説もある。ヒトラー研究家マーザーが発見。但し、ヒトラー自身は目の負傷により後方に送られたため、その事実を知らなかったという。1978年、TBSのテレビ番組に出演するためにその男性は来日している。現地でドイツ兵の私生児として知られていた彼は第二次世界大戦時は対独レジスタンスに加わり、ドイツ軍に逮捕されたこともあるが出自への同情からか釈放され、経済的支援を受けたと主張していた。両親ともに死亡しており、当時はDNA鑑定も出来なかったので、真偽のほどは不明である。

ヒトラーは女優グレタ・ガルボのファンで、ガルボの映画を官邸でよく鑑賞していた。

作曲家リヒャルト・ワーグナーの息子ジークフリートの未亡人ヴィニフレート・ヴァーグナーと恋愛関係にあったとも言われる。実際、ヒトラーとヴィニフレートが結婚するとの噂が何度も流れた。ヴァーグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けたバイロイト音楽祭は国家行事化していた。

人物像

体格

身長はよく172~3cmなどとされている資料を見かけるが1914年のザルツブルクでの徴兵検査(このときは虚弱のため兵役不能と診断された)の際の徴兵検査表に175cmと記されているためこれが正確な数字であろう。ヒトラーは自分の身長が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていたなどの話はあるが、これは戦後ヒトラーを小物として印象づけるために成されたデマの一つである。

現実のナチス高官は理想的なアーリア人種の体格とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とは、ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのように背が高いこと」(エーミール・ルートヴィヒ)とある。

栄養状態のよくなかった当時のドイツ人全体の平均では必ずしもヒトラーは小柄ではなかったが、「チビのチョビ髭」というイメージがチャップリンの映画『独裁者』以降定着した。なお、ヒトラーは『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は遺されていない。

記録

ヒトラーは遺伝的に薄毛で、前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。また、ヒトラーには睾丸が一つしかなかったといわれるが、ヒトラーの主治医はこれを否定した。

テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている。(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。

ヘルマン・ラウシュニングは、自著『永遠なるヒトラー』(八幡書店、1986年)で、ナチ党幹部であった自らにヒトラーが語ったとする言葉の数々を記録している。

先見性

メディアの利用

経済、政治のことに関してはまるで無知だったものの、当時の最新メディアであったラジオテレビジョン映画などを使用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるためラジオを安値で普及させた。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を作成させている。

日常生活

母がタバコ嫌いだったためか、自らもタバコを吸わず健康に気を遣い、部下やナチス高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙するよう勧めるほどであったという。女性を含め、ヒトラーの部下や周辺人物の殆どが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。さらに父が酒好きで酒場で脳卒中をおこして死亡したせいか、飲酒も殆どしなかった。

バルジの戦いの初期、ドイツ軍の攻勢が順調に進んでいる事を祝ってヒトラーがワインを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている(対照的に、同時代のヨシフ・スターリンは飲酒と喫煙を非常に好んだ)。偏愛した姪のゲリの自殺後は菜食主義者となったが、戦時中には菜食主義者団体を弾圧した(ただし、歴史学者 Rynn BerryHitler: Neither Vegetarian Nor Animal Lover では否定されている)。ピクニック散歩を好み、戦局がかなり悪化してからも身近な人々とティータイムを取る事を欠かさなかった。

ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持ち、世界に先駆けて食品の安全基準の作成やアスベストなど有害物質の使用制限を行い、禁酒禁煙を熱心に国民に呼びかけた(参考:『健康帝国ナチス』)。また、「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙禁酒運動をナチズムを彷彿させるものとしてタブー視する傾向にある。

身近な女性や子供に対しては親切で寛容であったという。秘書や使用人のミスに怒声を上げた事もなく、専属の調理婦には常に敬意をもって接していた。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれていた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。

どちらかといえば夜型であったため軍会議などもしばしば深夜に行われることが多く、側近たちは非常に苦労したという。この生活習慣が災いしてノルマンディー上陸作戦の対応に遅れたとも言われている。

愛犬家

ヒトラーが好きであったことは有名である。第一次世界大戦に従軍した時、戦場でテリア犬を拾い、「フクスル」と名付け、餌を与え芸を仕込むなど可愛がった。その後、フクスルの芸に惚れ込んだ鉄道員によりフクスルは盗まれた。

政治家に転身した後もヒトラーは数頭の犬を飼っている。大成した後のヒトラーの愛犬はアルザス犬の「ブロンディー」である。ブロンディーは1945年4月末、ヒトラーの妻エヴァが使用する毒薬の効能確認として薬殺された。

脚注

  1. ホロコースト研究家の第一人者であるラウル・ヒルバーグ教授はヒトラーが直接的にユダヤ人絶滅命令を出していない可能性を指摘している。
    「結局、ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産物というよりも、精神とか、共通理解とか、一致や同調の問題であった。この企てに加担したのはだれなのか。この事業のためにどんな機構が作動したのか。絶滅機構はさまざまなものの集合体であった。全作業を担った官庁はなかった。ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかったし、特定の予算も割かれなかった。それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし、それぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった。」
    ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』上、柏書房 44、50頁 

ヒトラーを演じた俳優

映画

他、下記作品でもヒトラー役の俳優が出演する。

舞台

ヒトラーを取り扱ったドキュメンタリー

  • 「ヒトラー」1977年、西ドイツ(当時)
ヒトラーの生涯とナチの盛衰を描いた、典型的なヒトラーのドキュメンタリー。
誕生日が4日違いのヒトラーとチャップリンの生涯を、「独裁者」完成までのストーリーを織り交ぜつつ対比させているドキュメンタリー。
  • 「ヒトラー家の人々」2005年、ドイツ
ヒトラーの家系・家族に焦点を当てたドキュメンタリー。
  • 「ヒトラーの山荘」(Exploring Hitler’s Mountain)2005年、ドイツSpiegel TV。監督:マイケル・クロフト
2005年までベルヒデスガーデンにあったヒトラーの山荘「ベルグホーフ」を中心に、ヒトラーが構想した戦略を扱ったドキュメンタリー。公開年に山荘が解体されたので、貴重な記録である。
  • 「ヒットラーと将軍たち」2005年、ドイツ
ヒトラーとカイテルロンメルカナリスパウルスマンシュタイン元帥との関係から、ヒトラーと国防軍の人物に迫った5部作のドキュメンタリー。

参考文献

ヒトラー著となっているもの

ヒトラーについて記した著書

関連項目

外部リンク


先代:
クルト・フォン・シュライヒャー
ドイツの首相
1933年-1945年
次代:
ヨーゼフ・ゲッベルス
先代:
パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツの大統領
1934年-1945年
次代:
カール・デーニッツ