北九州土地転がし事件

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北九州土地転がし事件(きたきゅうしゅうとちころがしじけん)とは、1981年福岡県北九州市で発覚し、全日本同和会分裂の引き金となった土地転がし脱税事件。

経緯[編集]

中心人物は、部落解放同盟小倉地区協書記長(当時)と全日本同和会会長松尾 正信(当時)ならびに全日本同和会相談役(当時)の3名。この3人が北九州市で13件の土地転がしをおこない、約9億円の土地を約26億円で北九州市当局に売却し、約17億円の利益を上げていた。

1981年6月16日、ローカル紙『小倉タイムス』がこの事件を「住宅公社舞台に六億円の土地転がし」「畑中助役 解同書記長 業者のトリプルプレー」「無用の山林八倍に "買わねば糾弾するぞ"」などの見出しで大きく報道した。最初に明るみに出たのは解同書記長による土地転がしだった。これに続いて『赤旗』『朝日新聞』『讀賣新聞』『西日本新聞』などの各紙がこの事件を大々的に取り上げ、同年8月には、北九州市の市民代表が、暴力団に対する同和資金の貸付や、年間200数十億円にのぼる同和予算の使途糾明につき、監査請求を提出した。

同年9月、市民代表が解同書記長ら3名を国土利用計画法違反で福岡地方裁判所小倉支部に告発

同年10月、日本共産党の議員団が現地調査をおこなう。同月、会計検査院が北九州市の同和行政に対する検査を表明。

同年11月、土地転がし脱税糾明署名推進会議が事務監査請求の署名運動を始め、全市有権者の約20パーセントにあたる14万人以上の有効署名(法定数の約10倍)を集めた。同月、市民代表が同和会会長を脱税容疑で福岡地裁に告発。さらに市民代表は谷伍平市長(当時)らを相手取り、総額7億4000万円の損害賠償を求め、住民訴訟を起こした。転がした土地を市長らが不当な高値で公費購入し、市民に損害を与えたとの理由による。

同年12月、野間宏ら解同に同調する文化人や学者たちが、解同に「要望書」を提出。事件の真相究明と見解表明を要求した。

1982年1月30日、『毎日新聞』が「木村前解同小倉地協書記長は五二○○万円の修正課税 過少申告洗い直し」の見出しで、この土地転がし脱税事件をトップで報道。同日、『朝日新聞』夕刊は「解放運動二幹部 過少申告明るみ 松尾全日本同和会長 木村前解同小倉支部長 所得修正や課税 二億円と五千万円余」の見出しで、やはりトップ報道。1月31日の『讀賣新聞』朝刊は北九州市当局側の不正を「住宅公社が土地疑惑"隠滅"北九州市資料一○○点を廃棄」と一面トップで報じるなど、スクープ合戦となった。

最終的に北九州市民の監査請求は退けられ、谷市長は僅差で再選した。1982年2月、部落解放同盟福岡県連合会が中央本部に「中間報告書」を提出したが、その内容は「七ヶ月間の大キャンペーンを見るに、それは悪意に充ちて、無法集団、悪の温床としての解放同盟、部落を印象づける」「差別キャンペーン」であるとマスコミ報道を非難するものだった。

一方、同和会では、この事件を機として自民党から当時の同和会会長に対する批判が噴出。自民党内では同対法の打ち切りを求める意見が強くなった。結局、被差別部落の保守層を支持基盤に持つ自民党議員たちの要請で、1982年3月に地域改善対策特別措置法が成立したものの、自民党と同和会の間に生じた亀裂は埋まらなかった。

同和会ではこれ以後も利権がらみの不祥事が続出したため、岐阜県徳島県香川県高知県京都府など12の府県で県連の全部または一部が同和会から脱退した。1986年4月、これらの府県連が全国自由同和会を結成した。

参考文献[編集]