見性院 (山内一豊室)

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見性院(けんしょういん、1557年弘治3年)- 1617年12月31日元和3年12月4日))は安土桃山時代から江戸時代女性である。土佐国高知藩主となる山内一豊正室。名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが不詳。ただ最も有力な説は「千代」なので、NHK大河ドラマ功名が辻』では「千代」となった。

出自[編集]

出自は諸説あり浅井氏家臣の若宮喜助友興の子と言われてきたが、美濃郡上八幡城主・遠藤氏の遠藤盛数の子説が有力になってきている。

父が遠藤盛数(永禄5年(1562年)死去)とすれば、母は東常慶の娘で兄は後に八幡藩主になる遠藤慶隆。しかし、千代(まつ)の幼時は戦に明け暮れる日々で母(天正10年(1582年)死去)とともにあちらこちらの家を転々としていたらしい。

山内家には「東常縁筆古今集」はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が京都にも携えてきて愛用した和歌集だったが死去に当たり養子の土佐藩主山内忠義に形見として渡すよう、育て子の湘南宗化を通じて遺言したものである。また見性院が、遠藤盛数の孫遠藤亮胤を山内家に仕官させるよう言い残したことも盛数の子説の根拠である。 

内助の功[編集]

嫁入りの持参金または臍繰りで一豊の欲しがった名馬を購入し、主君信長の馬揃え(軍事パレード)の際に信長の目につき加増されたた話やまな板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名である。歴史上においては、関ヶ原の戦いの前哨戦において三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」が有名である。司馬遼太郎は「千代がいなければ一豊が国持ち大名になるなどありえなかった」と言い『功名が辻』の題材に捉えた。

千代紙の命名の由来ともされている。これらの話は江戸時代中期の新井白石の『藩瀚譜』や室鳩巣の『鳩巣小説』などから人口に膾炙したものであるが、真偽については必ずしも詳らかではない。

一豊と千代のエピソードは、戦前においては賢妻のモデルとして多く取り上げられた。戦後では小説やドラマの題材となっている。千代を題材とした作品は、山内一豊を題材にした作品を参照のこと。

子と余生[編集]

一豊との間には娘(与祢)が1人生まれたが天災(天正大地震)により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。なお育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化がいる。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えがある。

一豊は弟・康豊の子・忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。見性院は夫・一豊が慶長10年(1605年)秋に亡くなると康豊に忠義を後見させて半年後にはさっさと土佐を引き払ってしまい、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んでそこで余生を過ごした。晩年は、母から贈られた古今和歌集徒然草などの和歌集を熱心に読んで過ごしたとされる。死去に際しては宗化がその最期を看取り、本人の遺言により料紙箱や所有している和歌集が山内忠義へ贈られた。これらの和歌集は、後に幕府に献上されている。

元和3年(1617年)、京都で死去。墓所は高知県高知市の山内家墓所。京都妙心寺にも山内一豊夫妻の廟所がある。

関連項目[編集]

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